結婚前夜ーー旦那様は高校生ーー
 悠樹は空を見上げた。空の奥のほうが鳴いて、風が強く吹いている。春一番、てやつかもしれない。式の間中泣いていたクラスメイトの女子たちが、一生けんめいスカートの裾をおさえてる。それぞれのクラス担任の最後の挨拶が終わった後も、グズグズと校門前に残っては写真撮影や色紙書きに精を出してるクラスメイトたちを、どこか遠い景色のように眺めていた。
 
 片手に持ってる卒業証書の入った筒を見つめる。
 卒業できたんだ。もう高校生じゃない。いや、法律的には三月いっぱいは高校生なんだろうけど。それでももう、このカラスみたいに真っ黒なブレザーを着なくてもいい。その事実を噛みしめる。
 
 ようやくここまできた。
 
 辺りを見回す。自分と同じような真っ黒の集団の中に、夏帆はいなかった。来るって言ってたけど、やっぱり準備でバタバタしてんのかな。
「悠樹」
 振り返ると、両親が立っていた。目を見開く。
「来とった?」
 普段出ないよう気をつけてるのに。驚きとともに故郷の方言が口からこぼれ落ちた。父が気まずげに視線をそらした。
「あの子が言うじゃん。今日来れば、明日は来んでもいいって」
 こちらでは聞くことのない故郷の言葉。ふるさとは、今日のように風が強いことが珍しくない海辺の町だ。海風に負けないようにというわけではないだろうが、あの町の男たちは皆父のように地声が大きかった。
 言葉の意味を理解して、ぐっと眉間にシワが寄る。

「ほんじゃぁ明日来んのか」
 最後までケンカ越しになってしまう。心がざらりと固くなるけど、どうしようもなかった。
「なわけないらぁ」
 母が笑って言った。もともとなにもなくても笑っているように見える母の顔。大柄な父と対照的に小柄な母は、父の隣に立つと余計小さく見えた。晴天の多い海辺で暮らす両親の肌はいつも茶色く乾いている。笑顔を作ると目元に寄ったシワが音を立てそうなくらい強く入って、それがどこか愛嬌を作っていた。
 だけど今日の母は、笑いながら泣くのを堪えてるようにも見える。

 そのまま目を合わせてると本当に母が泣いてしまいそうな気がして、耐え切れず目をそらした。自分の顔が不機嫌そうに歪んでるのがわかるけど、やっぱりどうしようもなかった。
「あたしら先生にご挨拶してくるから。夏帆さん来るだらぁ。待っとってもらって」
 そう言って母は、両腕を組んで押し黙っている父の背中に手をあてると、促がすように歩き出した。悠樹は集団で写真を撮るクラスメイトたちの邪魔にならないように立ち並ぶ桜の下に移動した。歩きながら思う。

 父はいつから夏帆をあの子、と呼ぶようになったんだろう。

 最初は「アンタ」だった。故郷ではどんな相手でも、基本的にあなたや君じゃなくアンタと呼びかける。
だけど父の呼び方は親しい人に対するアンタとはちがった。尖って相手を突き刺すような「アンタ」。値踏みするように夏帆を上から下まで見たあの目を、一生忘れないと思う。あの時なにもできなかった自分に対する怒りといっしょに。

 噴き出してくる苦い思いに蓋をするように、ポケットからアイフォンを取り出した。ぶら下がってるイヤホンを耳にあてる。マイケル・ジャクソンの「スリラー」。

 目を閉じて体を揺らした。リズムと自分を合わせていく。音を分解して飲みこむように。
今月はこの曲を毎日聞いて、体に馴染ませる予定だった。自分のなかに音楽を完全に取り込むことができれば、体は音に自然とついてくる。コーチがいつも言うことだ。指先や足が小さく技(ムーブ)を繰り出す。
 いつのまにか笑っている自分に気づく。踊るときはいつもそうだ。すごい楽しそうだよね、と夏帆にもいつも言われる。同級生たちの笑い声も遠くなる。
 もっとあざやかで激しくて、刹那的な世界に身を浸す――。

「ユーキ!」

 ワン。カウントと同時に振り上げた肘を固定したまま、目を開ける。
「斉藤」
 クラスメイトの斉藤ミカだった。卒業式だっていうのに、また髪が明るくなってる。ミカはあきれるように言った。
「また踊ってたの? 今日最後だよ。みんなと話さなくていいの」
「いいよべつに」
 渋々イヤホンを耳からはずす。気もちよくノッてたのに。
「ユーキはいつも変わんないんだね」
 口元を尖らせて言うと、ミカは悠樹の隣に立った。口調と裏腹に寂しげな眼差しに眉をひそめる。いつもうるさすぎるくらい騒がしいのに、やっぱり女子はこういうイベントだと感傷的になるんだろうか。

 たとえ十分間の休み時間でも、先生が来るのが遅い体育前の五分の時間でも、空いた時間があれば悠樹はいつも踊っていた。ただぼんやり立ち止まるということができない。五分あれば一曲聞ける。ってことは一曲踊れる。五分は大きな時間だ。
 実際、ダンスをしてると時間に敏感になる。一分一秒を細かく刻んで振り付けを割り当てていく中で、あと五秒あったらこんなことができるのに、と思うことはよくある。逆に、最後の三秒で観客を盛り上げることだってある。一秒一秒を無駄にできなかった。

 ミカは悠樹を見上げると、掌をひっくり返してニッコリ笑った。
「ちょーだい」
「なにを」
「ボタンだよ! 第二ボタン」
 聞き間違いかと訝りながら、ネクタイが垂れている自分のシャツを指さす。
「これ?」
 ミカは首を振って、
「ちがう、そっち」
 前を開けたブレザーに付いてるボタンを指さした。わけがわからず眉間にシワを寄せる悠樹に、
「知らないの? 卒業式には.好きなひとから第二ボタンもらうんだよ。少女マンガによると」
 ホントは学ランだと金ボタンで記念ぽいんだけどね、とアッサリした口調で続ける。
「はぁ?」 
 改めてミカを見返す。後ろの桜の木にもたれながら、
「おまえだって、サッカー部の奴と付き合ってんじゃん」
「あんなの別れたよ、とっくに」
 で、くれるの、くれないの、と怒った顔で問い詰められる。戸惑うよりも呆れて頭をかいた。
「べつにいいけど」
 悠樹にとって何の意味もない、三年間の間に小さな傷がいくつもできた黒いボタンに手をかける。思いのほか取りづらく、糸を引きちぎるのに苦労していると、ミカがぽつんと言った。
「ねー、ほんとに行っちゃうんだね」
 ボタンに手をかけたままミカを見る。黙っていると、俯いたミカがさらに続けた。
「でもすごいよね。やっぱ才能あるんだよ」
 普段あまり見ることのない、というかはじめて見る、少し憂いを帯びた横顔。
「あたしにはできないもん、全部捨ててちがう街行くなんて。飛びこんでけるのはやっぱ、ユーキが天才だからだよ」
 ふっと夏帆の顔がよぎって、ボタンにかけていた手をだらりと下げた。
「俺は、なんも捨ててないよ」
 捨てたのは、夏帆のほうだ。仕事、家族、友だち。全部を置いて、こんなガキの、未知数な自分を選んでくれた。

 ふいに悠樹は顔を上げた。じっと視線を校門に固定していると、人の間からこっちに走ってくる人影に気づいた。半歩前に出る。ミカがふしぎそうにユーキ? と声をかける。

 来た。

「夏帆!」

 腕を伸ばすと、夏帆が振り返った。黒い制服の集団のなか、夏帆のまわりだけが白く発光してるように見える。

 一人の旅路に夏帆を巻き込んだのは自分だ。
 後悔なんて絶対させない。

 悠樹は笑いながら勢い良く走り出した。
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