結婚前夜ーー旦那様は高校生ーー
 ピンポーン。
 インタフォンが鳴って、夏帆はメッセージカードを書くのを中断した。
「はいはいっ」
 急いで出ないと、せっかちな親友は平気でインタフォンの連打をしてくる。
 果たして、ドアを開けたと同時に二回目のピンポンが鳴らされた。
「やっ。準備順調?」
 鎖骨までのストレートの髪。女優のような大きい帽子の下、ミドリが笑っていた。その笑顔を見て、ふいに目頭が熱くなる。ここ数日、ほんとうに涙もろくなっている。
「ちょーっとちょっと」
 ミドリは夏帆の両肩をつかむと、
「あんた、今日だけは涙禁止よ。明日の顔を想像しなさい。お岩さんみたいに瞼腫れたブサイクな花嫁なんて誰が見たいと思う? 私はぜーったい認めないからね」
 ミドリらしいはっきりした物言いに笑いがこみ上げて、涙は止まった。
「気をつけます」
「よろしい」
 ミドリはにやっと笑ってパンプスを脱いだ。

「ママさんは?」
 スリッパを履きながらミドリが尋ねる。居間にもどりながら、
「買い物だって」
「ふうん。ってか旦那君は?」
 ミドリは悠樹のことを旦那君と呼ぶ。その呼び名が未だに慣れない。
「むこうのご両親と一緒。親戚の人たち迎えに行くって」
 書き途中のメッセージカードの束を、テーブルの隅に押しやる。昨日から書き続けて、残りの枚数も数えるほどになってきた。仕事はパソコンばかりだったので、久しぶりに手書きの文章を書いて手首が痛い。
 
 テーブルの隣には、口の開いた大きなダンボールがいくつも並んでる。中には梱包されたウェルカムボードや、披露宴の最後にゲストに配る小さなお菓子や、受付に飾る造花が入ってる。これらは後で、父が車でまとめて式場に運んでくれる予定だった。
 ミドリはダンボールの山を興味深げに見ながら座った。
「準備終わったの?」
「もうほとんどね」
 ちがうちがう、とこちらを振り向く。
「引越しのほうだよ」
 夏帆は黙って頷いた。
 
 新居のアパートには三日前に二人で行ってきて、全部の荷物を搬入した。今、二階の夏帆の部屋にはトランクが一つだけ置いてある。明日あれを持って式場に行き、式が終わり次第そのまま新幹線に乗る予定だ。我ながら強行スケジュールだと思う。だけど悠樹が働くことになってるダンススタジオは一日も早く来てほしいと言ってるから、夏帆も悠樹もそれに応えたかった。

「ベースはピンク? やっぱ」
 ミドリが傍らに置いた大きな箱を開ける。メイクリハーサルのときにスタッフの人が持っていたようなメイクボックスの中に、色とりどりのネイルがあふれている。本職は広告代理店で働くOLなのに、手先が器用で大学時代からよくこうやって爪を整えてくれていた。

 コーラルピンク。チェリーピンク。サーモンピンク。

 一口にピンクといっても、たくさんの色が色見本のように並んでる。ふとさっきの桜の映像が頭に浮かんで、白に近い薄いピンク色のネイルを取り上げた。

「これがいい」

 オッケー、とミドリが夏帆の手を取る。ミドリの爪はきれいに伸ばされて、グリッターの入った緑色が十本の若葉のようだ。その上にラインストーンが散りばめられている。ここぞ、という時に使う緑色。ほら、だって私ミドリだから、と前におどけていた。
 ということは、明日はミドリにとって「ここぞ」というときなんだとおもったら口元がゆるんで、その拍子にまた目の奥がツンとした。

 ミドリは夏帆の指先をコットンに含ませた除光液でさっと拭うと、口元を引き締めてネイルを塗り始めた。夏帆も静かにその様子を見守る。

 家の前を車が通り過ぎる音が聞こえる。作業に集中してるミドリのつむじがかすかに揺れる。ひとつひとつ、飴のようにつるんと輝くネイル。時計がコチコチと小さく時間を切っていく。
反対の手出して、と言われて手を伸ばす。
「むこうのご両親と仲良くなった?」
 ネイルを塗りながらミドリが尋ねる。曖昧に首を振った。
「どうだろ」
 さっきの再会を思い出す。アンタら人前で何しとる! 真っ赤になった義父の橘が、抱き合う夏帆と悠樹に向かって怒鳴った。義母の由果はアラ~と目を細めてこっちを見上げていた。べつに笑ってるわけじゃなくて、あのひとの地顔なのだ。

「アンタらは毎度毎度、人前でなにしとるん。そんな注目されたいんか」
 真っ赤になったまま大声で怒鳴る橘が、誰よりも注目を集めていた。思い出して苦笑する。
「三歩進んで二歩下がったってかんじ」
 はじめて挨拶をした日の、二人の驚いた顔を忘れられない。

「アンタ、気はたしかか」
 日に焼けた声の大きな男だった。しゃんとした背筋と同じくらい、向けてくる言葉も眼差しもまっすぐだった。くっきりとした二重瞼の目が悠樹に似ていた。

 あの日、正座している畳の目が足の甲にあたっていた感触や、背中に流れていった汗や、誰も手をつけなくて水滴がたまった麦茶の入ったガラスコップなんかを、はっきりと覚えてる。障子の向こうで風が強く吹いていて、庭の木がざわざわと音を立てていた。

 都会に出た息子をたぶらかす悪女。そんな風におもわれたとしても仕方なかった。悠樹によく似た眼差しが、息子のためをおもった純真な怒りを宿している。

 あの日どうやって家についたのか、よく覚えてない。一緒に行ったはずの悠樹とは引き離されて、一人で新幹線に乗って東京駅までもどった。

 だめだ、だめだ、やっぱりだめだ。

 休みなくかかってくる電話はすべて悠樹の名前が表示されていた。その電話にも出られず、ベッドの上で震えながら眠ったあの夜。

 あれからいくつもの夜を越えて、今こうして花嫁になる準備をしている。
 人生はふしぎだ。
 
 粘り勝ちだったとも言えるし、諦めただけなのかもしれない。たった一人でよく知らない街に行かれるより、保護者がいたほうがまだ良いと思ったのかもしれない。本心はまだわからない。それでも。

 手を離さなかった。十八歳と二十八歳で。
 運命はふしぎだ。

「ま、あせることないよ。これからなんだから」
 ぼんやりしている間に手際よく二度塗りを終わらせたミドリが顔を上げる。うんと頷いた。
「ね、ところで明日のスピーチ頼んだよ」
「あー言わないでそれ。考えないようにしてんだから」
「どういう意味よちゃんと考えてよ」
ミドリが顔を上げて笑う。
「えーじゃあ二人の出会いとか、全部言っちゃうよ? 旦那君の親また怒るんじゃない」
「いや、むしろ」
 そのときのことを思い出してにやっとする。
「ミドリの女子力が疑われるんじゃない」
 なにそれ、ひどっ。ミドリが大げさに言って、お互い笑った。
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