淡 墨 桜 う す ず み さ く ら
淡墨桜
「愛してるわ」
彼女は冷たくなった僕の頬にそっと手を当てる。
アイシテルの反対語は何だろう……と考える。
と言うのも彼女は僕に嘘ばかり。
僕は無言で彼女を見下ろした。
上品な絹のしなやかさ、シボ感のある生地が高級感を漂わせている正絹訪問着(着物)が淫らに畳の上に舞い散っている。
わずかに黄色みを含んだごく淡いピンク色地に、まるで一滴の墨を落としたように鈍く輝く生地は淡雪のように白い彼女の肌に良く映えた。そしてその着物の色は僕の気持ちを代弁しているようだ。
その生地にごく淡いベージュ、ごく淡い藤色などのぼかし。
浅い青色、緑色、白色、淡いピンク色などの色使いの短冊、桜模様。
ところどころの金彩、上前部分の一部には刺繍も施されていて、品位ある華やぎを添えている。
それは柔らかな色合いで、桜のように美しい彼女に良く合っている。
僕は着物のことなんてあまり知識がないけれど、でもそれが高価なものだと言うことだけは分かる。
その煌びやかな着物の下、見事な裸体を包むのは今は白い襦袢一枚だけ。
その腰紐を乱暴に解いて、合わせ目を同じように乱暴な仕草で開きたい衝動に駆られる。
しばらくの間、その衝動と戦っていた。
唇を噛み、目を伏せて着物の裾を睨んでいると、再び彼女の冷たい指が僕の頬を撫でていった。
「どうしたの?今日は静かね……。それとも”開いてる”から集中できない?」
彼女は頭上を仰ぐと、僕たちの目の前で開かれた、障子襖を目配せ。
ぐるり、とまるで剥きたてたまごの白身のような白目と、黒曜石のような瞳が動き、その視線の先には立派な日本庭園が広がっていた。
三十畳以上ある広い和室に見合うだけの立派な庭園。空を仰ぐと瑠璃色の空が広がっていた。
”恋人たち”が睦み合うには最高のシチュエーションでもあり、ロマンチックだ。
庭の地面は砂利を敷いた枯山水。その上には見事なバランスで沓脱から飛び石に繋がっている。
そしてその日本画と見紛う風景をより完成に近づけているのは、庭に立つ樹齢を重ねた一本の大きな桜の樹。
僕は彼女を再び見下ろした。
ざわざわと、風が一層強く吹き、ピンク色の花びらが舞う。
その舞い上がる花びらは庭園の空を舞い、沓脱や飛び石の上を撫でるように滑り、やがて彼女の黒い髪に転々と堕ちた。
その紅い花びらは、僕が以前彼女の肌に付けた痕と良く似ていた。
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