マネー・ドール -人生の午後-
 診察室で、真純はしきりに、転んだ、と繰り返していた。処置室で処置してもらってる間も、転んだ、と繰り返している。

「あの、ケガは……」
「傷自体は、深くはありますが、神経にも触ってませんし、縫う程でもないでしょう」
「そうですか。よかった……」
「ただ、ちょっと、精神的に動揺されてるようですね。転んだにしては、傷が不自然ですが……本当に転んだだけですか?」
 この病院は、松永さんの紹介で、ある程度の融通は利く。
「私は、その場にいなかったので……でも妻は、転んだだけだと」
「そうですか。ご本人がそうおっしゃるならね……精神安定剤を出しておきましょう。今夜は飲ませてあげてください」
 
 精神安定剤……
 正直に言うと、俺は、もうどうすればいいのか、わからなくなっていた。
 今日のことだって、普通の状態じゃなかったはずだ。正常な意識の中で、あんなこと、するわけがない。
 なんとなく、俺はずっと、真純の変化を感じていた。
あの夜から、真純は、急に泣いたり、急に笑ったり、急に怒ったり、急に不安な顔をしたり……
俺は俺なりに、真純を受けとめる努力をしてきたけど……俺じゃ、ムリなのかな……

「ご主人、大丈夫ですか」
 泣いてしまいそうだ。俺……限界かもしれない……
「何か、ご心配なことがありますか?」
「いえ……」
「奥様は、ずいぶん不安定な状態のようです。もし、よろしければ、心療内科か、精神科か、紹介状を出しますよ」
「精神科……妻は、病気なんですか。うつ病とか、そういう……」
「それを知るためにも、受診をおすすめします。一度、ご夫婦でゆっくり、話し合われてみては。それにご主人自身も、少しお疲れのようです」
「妻が、わからないんです……俺、どうしたらいいのか……」
「病名をつけることが、必ずしもいいことだとは思いません。しかし、周りの人までが、疲れてしまったら、奥様は誰を頼りしにしたらいいんでしょう。ご主人、あなたしか、いないのでは? 奥様が頼りにできる人は……適切な治療をすれば、奥様も、ご主人も、いい方向に進むはずです」
 
 俺しか、いないのか。
 真純には、もう、俺しか……俺が、すべて奪ったのか……

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