マネー・ドール -人生の午後-
 家に着いたのは、もう十二時前になっていた。

 玄関で、汚れた足を拭いてやると、風呂に入りたいと言い出した。
「シャワーだけでガマンして。また出血したらダメだから」
「うん」
「髪、洗ってあげるよ」
 汚れた服の下の体は真っ白で、なぜか、いつもより、艶かしい。
 左手を濡れないようにビニールで包むと、不自由そうにする。
その姿が、また俺の、あのおかしな感情を呼び起こした。

 バスチェアに座る真純は、少し俯いて、シャワーを浴びる。
 髪が濡れて、白い首に巻きついて、そして、俺の手も……

 鏡に映った俺達は、まるで映画のワンシーンのよう。
「真純……」
  Tシャツとパンツ姿の俺は、シャワーの湯を浴びながら、無抵抗な女の首を、しめている。

「……け……い……た……」

 水音に混じって、掠れた声が聞こえた。

「ご……め……ん……な……さ……」

 できないよ……
 やっぱり、そんなこと……

 手が離れると、真純はぐったりと、俺の胸に、体を凭れさせた。

「電話がね、かかってきたの」
 掠れた声で、呟いた。譫言のように、空を見つめて、ぼんやりと、呟く。

「凛ちゃんから、電話が……お菓子をね、買ってきてって……だから、私ね、クッキーをあげたの。ほら、もらったのに、ずっと食べずにおいてたクッキー、あれをね、娘ちゃんたちにって、渡したの」
「そうか」
「よかった?」
「構わないよ」
「将吾ね、パパって言ってた。自分のこと……」
「パパ、だからな」
「聡子さんのことはね、ママって言ってた……宿題しとけってね、優しくね……」

 シャンプーをつけて、髪を洗う。
泡がたって、真純の肩や背中が、ふわふわと、染まっていく。

 なんていうか、まるで、小さな娘の髪を洗っているような気持ち。

「俺達にも、子供がいたら、少しは違った生活だったかな」
「子供、欲しかった?」
「結婚したころはね、欲しかったかな」
 こんな話をするのは、初めてだね。
 子供なんて……考えることも、なかった。
「私ね……あんな嘘ついて……後悔したわ……」
「もう、昔のことだよ」
 
 真純は、あの嘘をずっと背負ってたんだ……この十六年、真純はずっと、自分のついた嘘に苦しんで……

「離婚して欲しかった……ずっとね、別れようって、言って欲しかったの……」
 そうだったんだ……俺はてっきり……この生活さえできれば、真純はいいと思ってた……
 それがずっと、俺の唯一の方法だったのに……
「今は?」
「今は……今はね……幸せなの……なのに、私……」
 うなじに長い髪が流れて、白いおっぱいが少し紅く染まり始めていた。
「そろそろあがろうか」
「……子供は、裏切れないって……」
 そう言って、真純は、ふらふらと立ち上がった。
「嫌いにならないで……」
「ならないよ」
 抱きしめた真純の体は、柔らかくて、痩せていて、シャワーのせいか、熱かった。

「俺もシャワー浴びるね。先にあがってて」
「ここで待ってる」
「すぐだから」
「ここで待ってる」
「じゃあ、待ってて」
 バスタブの淵に座った真純は、俺の体をじっと見ている。
何を、考えてるんだろう。杉本の体を思い出してるんだろうか。それとも、比べてるのか?
「お腹、出てないね」
「そうか?」
「中村くん、お腹出てた」
「そうだなあ。あいつも、おっさん化が進んでるよなあ」
 俺達は思わずちょっと笑ってしまって、少し、緊張が解けた。やっぱり、中村のおかげで。

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