マネー・ドール -人生の午後-
 凛ちゃんを部屋に残し、リビングでは、呆然と、将吾が立ちすくんでいた。
「座って」
「真純、これは……」
「座って」
 信じられない……あんなに、私達は、身勝手な親に苦しめられたのに……いいパパだって、思ってたのに……
「ああやって、いつも?」
将吾は、つらそうに、頷いた。
「つい、手が出てしまう……」
「どうして……」
「かわいいんや、子供は……聡子も……大事やのに……こうなった時に、自分を抑えられん……」
 将吾は、自分の右手を左手で抑える。微かに震えている右手に、涙が落ちていく。
「聡子さんと、何があったの? まさか……私のことで……?」
「いや……そうやない。聡子、妊娠しとったんや。ずっと体調が悪くて……でも、ちょうど夜勤のヤツが辞めてもうて、俺もシフトがきつなって、なかなか家におれんで……結局、流産してしもうたんや。聡子がそれでちょっと、荒れて、俺も、受けとめれんで、つい……」
「どうして、探してあげないの?」
「中村のとこにおるってのはわかっとったし、しばらくは、このままの方がいいと思って……」
「子供たちはママがいなくなって動揺してるわ。夜も子供たちだけでいるっていうし……ねえ、聡子さん、迎えに行ってあげて」
 でも、将吾はため息をついて、首を横に振った。
「真純……殴ってしまうんや……」
「思い出して。辛かったあの頃のこと、痛くて、悲しくて、もう死にたいくらい辛かったこと……」
「わかっとるけど……もう、どうしたらええか……」
 なんだか、変。将吾、何か隠してる? ねえ、将吾……まさか……
「まさか、聡子さん、ケガしてるの?」
 目の前に座る彼は、今まで初めて見たくらい、深く項垂れて、微かに頷いた。
「俺も疲れてて……つい……いつもなら、なんも言わんのに、あの時は、聡子が……聡子が、言い返してきて……気がついたら……そんなに殴るつもりはなかったんや……信じてくれ……」
 胃から上がってきたものを飲み込んで、吐き気を抑えて、何を言えばいいかわからなくて……でも……しっかりしなきゃ。凛ちゃんのためにも、しっかりしなきゃ……
「出て行ったのは、ケンカじゃなくて……ケガを見せないためね?」
「そうや……子供らは中村の家にも行ったらしいけど、聡子も会える状態やなくて……」
「そんなに……酷いの?」
「顔がな……アザが……」
「なんてこと……ねえ、どうして? 私にはそんなことしなかったじゃない」
「……お前とおる時は、それだけでな……満たされとった……」
「今は、満たされてないの?」
「……どっかで、違う人生があったんやないかと思う……」
私も、ずっと同じこと考えてた……でも……違うのよ、将吾……
「そんなの、ないのよ」
「真純……なんで……なんで、佐倉やったんや……なんで、俺やなかったんや……」
「将吾……凛ちゃんに、聞こえるわ……」

 将吾は、泣いている。初めて見る、将吾の涙……ごめんなさい……私……私には……どうすることもできない……

「子供たちは、ケガのこと知らないのね?」
「涼だけは、なんとなく気がついとる。多分、俺が聡子を殴るところ見とったんやろ……」
「聡子さんとは、話したの?」
「ああ、聡子は、ケガがひいたら、家に帰るゆうとる。でも、それまでは……」
「どれくらいかかりそうなの?」
「そうやな……アザがましになるのは、あと一週間か……」
「子供たちだけで夜も過ごしてるんでしょう? そんなのダメよ。どうにかならないの?」
「人が足りんでな……今は夜も乗らんと……中村は、夜はええゆうてくれとるけど、こんなに世話になっとるし、俺のせいで他の人間がもっとキツなんのは……涼だけやったら、事務所に連れて行って、仮眠室に寝かせとけるけど、凛と碧はそういうわけにはいかんから……」
「それなら、うちに来ればいいわ」
「いや、それは……」
「涼くんは男の子だし、パパの方がいいと思うの。女の子二人なら、うちでも大丈夫だから」
「真純、そんな迷惑はかけられん。まだ学校もあるし」
「学校なら、朝私が送って行くわ。夕方は、家に迎えに行く。それなら安心でしょ?」
「そんな……無理やろ」
「大丈夫よ。ねえ、将吾、しばらく離れて考えてみて。自分が何をしたのか、どんなに聡子さんが傷ついたか。……暴力は、許せないの。たとえあなたでも、許せない」
「……佐倉は、ええんか」
「滅多にいないから、大丈夫よ」
「そうなんか?」
「二十四時間仕事してるようなもんよ。夜中でも、呼び出しがあれば出て行くし。三、四日帰って来ないこともしょっちゅう。でも、一緒に仕事してみてね、慶太の仕事がなんとなくわかって……理解はしてるわ」
「じゃあ、甘えてええか……」
「ええ、ちゃんと頭冷やして、迎えにきてあげてね」

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