マネー・ドール -人生の午後-
ため息をついて、書類を片付けて、十二時前にオフィスを出た。
IDを通すと、後ろから、田山くんが走ってきた。
「部長、送ります」
「いいよ、電車で帰るから」
「クライエントのところに行くんです。通り道ですから」
田山くんの嘘は、バレバレだったけど、今の私は、彼に縋らないと、崩れてしまいそうだった。
「ごめんね」
「いえ、いいんですよ。ついでですから」
道路は少し渋滞していた。
「混んでるね」
「時間、大丈夫ですか」
「うん、全然」
無言の車内に、カーラジオから、お昼のニュースが流れる。
「あの時、言ったこと、覚えてますか」
「あの、夜のこと?」
「はい」
「……覚えてるよ……」
「今も、変わってません」
「……夫のこと、愛してるの」
「わかってます。困らせるつもりはありません。あのご主人に、勝てるとは思ってませんから。でも、俺は……部長のことが、心配なんです」
「心配?」
「前も言ったでしょう。部長は、優しすぎるから、なんでも抱え込んじゃうって」
「そう……かな……」
「お母さんのことも、抱え込んでますよね」
見透かしたように、田山くんは、前を向いたまま、優しく言った。
「そんな顔の部長を見るのは、嫌なんです」
田山くん……キミなら……私のこと……受け止めてくれる?
「……虐待、されてたの」
「はい」
「許せないのよ、今でも……」
「当然だと思います」
「でも、みんなね……会うべきだって言うの。私は……つらいのに……思い出すのも……」
「オトナなら、そう言うでしょうね。それが、オトナの体裁です」
田山くん……私、縋っちゃうよ。キミのその優しさに、縋ってしまう。
「私のことね、幼馴染が、コドモのままだって言うの。甘えたの、私のままだって」
「いいじゃないですか、甘えたで。コドモでいいんですよ。何がいけないんですか。俺なら、そんな部長の方が……好きだけどな」
「田山くんだけだよ……そんな風に……私のこと、許してくれるの……みんな、私のこと、勝手につくりあげて……もう、疲れたの……仕事もね……」
信号待ちで、田山くんは、左手で、私の右手を握った。
ちょっと冷たいその手を握り返して、私達は、自然に、唇を合わせた。
あの夜みたいに、私達は、キスをした。
違っていたのは、慶太の顔が、浮かばなかったこと。
素直に田山くんの唇を受け止めて、たぶん、もしここにベッドがあったら、私は、田山くんに身を任せていた。
でも、そこは車の中で、昼間で、渋滞の道路。信号が変わって、彼は、唇を離した。
「俺なら、部長にそんな顔、させないのに」
田山くんは、握った手に力を込めて、ちょっと涙ぐんだ。
「どうして……そんなに、私のこと?」
「……部長、二人で、遠くに行きましょうか」
田山くん……本気で? 本気で言ってるの?
「冗談です」
「……連れて行ってくれるの?」
でも、私の言葉に、彼は、前を向いたまま、何も答えてくれなかった。
ただ、私の手を、強く握りしめて、もう一度、クールに、冗談です、と言った。
握った手が離れて、車は、マンションの前に止まった。
見慣れたゲートの前で、何かに吸い込まれるように、私は、現実に引き戻される。
「お気をつけて」
「ありがとう」
何もなかったみたいに、車を降りた私を見送って、田山くんは、軽く会釈をして、車を出した。
逃げ出したかった。
もう、ここから、部屋には戻らずに、田山くんの車で、どこか、遠くへ。
IDを通すと、後ろから、田山くんが走ってきた。
「部長、送ります」
「いいよ、電車で帰るから」
「クライエントのところに行くんです。通り道ですから」
田山くんの嘘は、バレバレだったけど、今の私は、彼に縋らないと、崩れてしまいそうだった。
「ごめんね」
「いえ、いいんですよ。ついでですから」
道路は少し渋滞していた。
「混んでるね」
「時間、大丈夫ですか」
「うん、全然」
無言の車内に、カーラジオから、お昼のニュースが流れる。
「あの時、言ったこと、覚えてますか」
「あの、夜のこと?」
「はい」
「……覚えてるよ……」
「今も、変わってません」
「……夫のこと、愛してるの」
「わかってます。困らせるつもりはありません。あのご主人に、勝てるとは思ってませんから。でも、俺は……部長のことが、心配なんです」
「心配?」
「前も言ったでしょう。部長は、優しすぎるから、なんでも抱え込んじゃうって」
「そう……かな……」
「お母さんのことも、抱え込んでますよね」
見透かしたように、田山くんは、前を向いたまま、優しく言った。
「そんな顔の部長を見るのは、嫌なんです」
田山くん……キミなら……私のこと……受け止めてくれる?
「……虐待、されてたの」
「はい」
「許せないのよ、今でも……」
「当然だと思います」
「でも、みんなね……会うべきだって言うの。私は……つらいのに……思い出すのも……」
「オトナなら、そう言うでしょうね。それが、オトナの体裁です」
田山くん……私、縋っちゃうよ。キミのその優しさに、縋ってしまう。
「私のことね、幼馴染が、コドモのままだって言うの。甘えたの、私のままだって」
「いいじゃないですか、甘えたで。コドモでいいんですよ。何がいけないんですか。俺なら、そんな部長の方が……好きだけどな」
「田山くんだけだよ……そんな風に……私のこと、許してくれるの……みんな、私のこと、勝手につくりあげて……もう、疲れたの……仕事もね……」
信号待ちで、田山くんは、左手で、私の右手を握った。
ちょっと冷たいその手を握り返して、私達は、自然に、唇を合わせた。
あの夜みたいに、私達は、キスをした。
違っていたのは、慶太の顔が、浮かばなかったこと。
素直に田山くんの唇を受け止めて、たぶん、もしここにベッドがあったら、私は、田山くんに身を任せていた。
でも、そこは車の中で、昼間で、渋滞の道路。信号が変わって、彼は、唇を離した。
「俺なら、部長にそんな顔、させないのに」
田山くんは、握った手に力を込めて、ちょっと涙ぐんだ。
「どうして……そんなに、私のこと?」
「……部長、二人で、遠くに行きましょうか」
田山くん……本気で? 本気で言ってるの?
「冗談です」
「……連れて行ってくれるの?」
でも、私の言葉に、彼は、前を向いたまま、何も答えてくれなかった。
ただ、私の手を、強く握りしめて、もう一度、クールに、冗談です、と言った。
握った手が離れて、車は、マンションの前に止まった。
見慣れたゲートの前で、何かに吸い込まれるように、私は、現実に引き戻される。
「お気をつけて」
「ありがとう」
何もなかったみたいに、車を降りた私を見送って、田山くんは、軽く会釈をして、車を出した。
逃げ出したかった。
もう、ここから、部屋には戻らずに、田山くんの車で、どこか、遠くへ。