黒太子エドワード~一途な想い
カスティリャ王国
カスティリャ王国 Reino de Castilla は、イベリア半島中央部にあった王国で、キリスト教国によるレコンキスタ(国土回復運動)において主導的役割を果たし、後のスペイン王国の中核となった。
その辺りのことは、百年戦争のずっと先の話なので、今はこれ位にし、黒太子に助けを求めてきたペドロ1世について、簡単に述べておこう。
ペドロ1世は、先の父王、アルフォンソ11世とポルトガル王の娘マリアとの間に生まれた由緒正しい王族であった。
が、彼には、異母兄がいた。愛妾レオノール・デ・グスマンから生まれたエンリケ2世である。
彼は、生まれた順番だけから言うと「長男」であったが、愛妾の子ということで、生まれてすぐにトマスタマラ伯の所に養子に出されていたので「エンリケ・デ・トマスタマラ」と呼ばれていた。
アルフォンソ11世の死により、ペドロ1世が弱冠16歳という若さで即位したが、有力貴族に押さえ込まれ、実の母のマリアさえも裏切って有力貴族についたので、しばらくは大人しくしていた。
が、やがて有力貴族達の間に仲間割れが生じ、彼はその機に乗じて実権を握った。
以前、即位した時、味方になってくれなかったどころか、敵側についた母マリアを実家のポルトガルに追放し、たてつく有力貴族を弾圧、自分の言うことを聞く下級貴族の文官やユダヤ人を登用していった。
彼のそんな行動から、支持者には「正義王」と呼ばれ、敵からは「残酷王」と呼ばれた。
それでもまだ、彼がカスティリャ王国内にいられる間は良かった。問題は、その後、フランスとの間に起きたのだった。
ペドロ1世の妻は、政略結婚によくありがちな他国の姫で、フランスのブルボン公ピエール1世の娘、ブランシュであった。
にもかかわらず、彼はこの嫁が気に入らなかったのか、すぐに幽閉してしまう。
そのことを怒った彼女の父のブルボン公が国王シャルル5世に直訴、ペドロ1世は家臣からも責められ、結果、自分の国を追われるまでに至ってしまう。
フランスとのことで国を追い出された彼が頼ったのは、自然とそのフランスと敵対していたイングランド──その王太子たる、黒太子であった。
彼はうまくいった暁には、領土を割譲すると約束して、援助を求めたのだった。
しかも、黒太子だけにとどまらず、イベリア半島南部のイスラム国家であったグラナダ王にも同じ約束をして。
そのようなことがあって、1367年の「ナヘラの戦い」は、その戦いの火蓋を切って落とした。
その辺りのことは、百年戦争のずっと先の話なので、今はこれ位にし、黒太子に助けを求めてきたペドロ1世について、簡単に述べておこう。
ペドロ1世は、先の父王、アルフォンソ11世とポルトガル王の娘マリアとの間に生まれた由緒正しい王族であった。
が、彼には、異母兄がいた。愛妾レオノール・デ・グスマンから生まれたエンリケ2世である。
彼は、生まれた順番だけから言うと「長男」であったが、愛妾の子ということで、生まれてすぐにトマスタマラ伯の所に養子に出されていたので「エンリケ・デ・トマスタマラ」と呼ばれていた。
アルフォンソ11世の死により、ペドロ1世が弱冠16歳という若さで即位したが、有力貴族に押さえ込まれ、実の母のマリアさえも裏切って有力貴族についたので、しばらくは大人しくしていた。
が、やがて有力貴族達の間に仲間割れが生じ、彼はその機に乗じて実権を握った。
以前、即位した時、味方になってくれなかったどころか、敵側についた母マリアを実家のポルトガルに追放し、たてつく有力貴族を弾圧、自分の言うことを聞く下級貴族の文官やユダヤ人を登用していった。
彼のそんな行動から、支持者には「正義王」と呼ばれ、敵からは「残酷王」と呼ばれた。
それでもまだ、彼がカスティリャ王国内にいられる間は良かった。問題は、その後、フランスとの間に起きたのだった。
ペドロ1世の妻は、政略結婚によくありがちな他国の姫で、フランスのブルボン公ピエール1世の娘、ブランシュであった。
にもかかわらず、彼はこの嫁が気に入らなかったのか、すぐに幽閉してしまう。
そのことを怒った彼女の父のブルボン公が国王シャルル5世に直訴、ペドロ1世は家臣からも責められ、結果、自分の国を追われるまでに至ってしまう。
フランスとのことで国を追い出された彼が頼ったのは、自然とそのフランスと敵対していたイングランド──その王太子たる、黒太子であった。
彼はうまくいった暁には、領土を割譲すると約束して、援助を求めたのだった。
しかも、黒太子だけにとどまらず、イベリア半島南部のイスラム国家であったグラナダ王にも同じ約束をして。
そのようなことがあって、1367年の「ナヘラの戦い」は、その戦いの火蓋を切って落とした。