黒太子エドワード~一途な想い
──結局、約二ケ月後の一三四三年一月に、ローマ教皇クレメンス六世の仲裁により、ブルターニュ継承戦争も一旦停戦することになった。
その際、両陣営によって、取ったり取られたりした都市、ヴァンヌは、教皇直属の保護下に入った。
イングランド、フランス両陣営から「守る」為、ということもあったのだろう。建て前だけでも。
七年後の一三五〇年に多くの巡礼者がローマに巡礼するようになっても、教皇はアヴィニョンに留まり、贅沢三昧を続けていたというので、その都市からあがってくる利益を手にしたい、というのもあったのではないかと思われる。あくまでも、推測の域を出ないが。
その停戦を受け、救われた人物がいた。
ルーブル宮の奥の牢獄に繋がれていた、ジャン・ド・モンフォールである。
停戦から約八か月後、ようやく彼は「東部に留まる」条件付きで、釈放されたのだった。
「東部に留まれ、だ? フン、馬鹿馬鹿しい! そんな命令になど、従えるか!」
ルーブル宮の獄に繋がれていた間、髭と髪は伸びていたものの、着ていたものは上等なもののままだった。少し汚れてはいたが。
しかも、良いものを食べていたからか、痩せてはいなかった。
だからこそ、気力も充実していて、そんな偉そうなことを言えたのかもしれなかった。
そして、実際、彼は獄を出ると、ヴァンヌの街を落としてしまったのだった。
全く懲りてなかった、とも言えるかもしれない。
その際、両陣営によって、取ったり取られたりした都市、ヴァンヌは、教皇直属の保護下に入った。
イングランド、フランス両陣営から「守る」為、ということもあったのだろう。建て前だけでも。
七年後の一三五〇年に多くの巡礼者がローマに巡礼するようになっても、教皇はアヴィニョンに留まり、贅沢三昧を続けていたというので、その都市からあがってくる利益を手にしたい、というのもあったのではないかと思われる。あくまでも、推測の域を出ないが。
その停戦を受け、救われた人物がいた。
ルーブル宮の奥の牢獄に繋がれていた、ジャン・ド・モンフォールである。
停戦から約八か月後、ようやく彼は「東部に留まる」条件付きで、釈放されたのだった。
「東部に留まれ、だ? フン、馬鹿馬鹿しい! そんな命令になど、従えるか!」
ルーブル宮の獄に繋がれていた間、髭と髪は伸びていたものの、着ていたものは上等なもののままだった。少し汚れてはいたが。
しかも、良いものを食べていたからか、痩せてはいなかった。
だからこそ、気力も充実していて、そんな偉そうなことを言えたのかもしれなかった。
そして、実際、彼は獄を出ると、ヴァンヌの街を落としてしまったのだった。
全く懲りてなかった、とも言えるかもしれない。