黒太子エドワード~一途な想い
「あはははは! いやぁ~っ!」
 その音に反応したのか、廊下で妻のジャンヌ・ド・フランドルが異常な叫び声をあげた。
 だが、ジャン・ド・モンフォールは、後事を託す手紙を書くことしか頭になかったようで、必死で床に手を伸ばしていた。
「もう少し……もう少し、わしに時間を……!」
 床に落ちた引き出しの中から紙とペンを取りながら、ジャン・ド・モンフォールはそう言ったが、すぐに咳き込んでしまい、やっと手にしたはずの紙もペンも、再び床に落ちてしまった。
「誰か……誰か、頼む! ジャンを……我が息子を守ってやってくれ……!」
 そう言いながら、彼は紙とペンに手を伸ばそうとして再び咳き込み、そしてぐったりとベッドから腕を下したのだった。
 シーツや腕を辿って、床に治がしたたり落ちたが、それでも彼は動こうとはしなかった。
 いや、動けなかったのだが、廊下では、夫のそんな状態に気付いていない妻が、まだ大声で何かを叫んでいた。
 ──一三四五年。
 クレシーの約二年前、ジャン・ド・モンフォールは志半ばでこの世を去り、まだたった五歳の嫡男ジャンがその跡を継いだ。
 妻のジャンヌ・ド・フランドルは奇行も目立ち、感情の抑制もとれずにいたので、実質、モンフォール派の指揮を執ったのは、ロンドンからの指令を受けた、ブレストのイングランド守備隊であったと言われている。

 カンペールやヴァンヌと並んでよく出てくる地名「ブレスト」。
 最もイングランドに近いブルターニュ半島の港町で、後世では「フランス最大の軍港」になった所である。
 この話の百年戦争の間には、イングランド軍も上陸しているが、その約百年後の一五三二年には、フランス王国領として編入され、カナダやインドへの植民基地となったのだった。
< 60 / 132 >

この作品をシェア

pagetop