黒太子エドワード~一途な想い

ドーフィネの王太子

「まぁ、そんなことが?」
 王宮に戻ると、王太子シャルルは、先日子供を産んだばかりの妻の所に行き、三部会での話をした。
 すると、妻は目を丸くして、そう尋ねたのだった。
 ジャンヌ・ド・ブルボン。
 年は、王太子シャルルと同じ年であったが、彼の父の従妹という親戚関係にあった。
 ペストの拡散を防ぐ為、王侯貴族の集結が限定され、近親者との結婚がよく執り行われていたのだが、彼らの結婚もその1つであると言えた。
 ただ、1349年に王太子シャルルの母、ボンヌ・ド・リュクサンブールと父方の祖母、ジャンヌ・ド・ブルゴーニュが揃ってペストで亡くなり、彼自身も宮廷を出て、ドーフィネに避難したので、結婚は1350年4月8日まで延期されたが、それでも二人ともまだ12歳という若であった。

 ちなみに、シャルルは、最初に「ドーファン(王太子)」の名を有した王太子であり、後に初のオルレアン公となる叔父のフィリップや弟のルイ等、近親者で同年代の子供達と共に宮廷で育っている。
 家庭教師は、シルヴェストル・ド・ラ・セルヴェルという男で、ラテン語と文法を教わったと言われている。
 彼が本ばかり読むようになったのも、そのシルヴェストルの影響だったのかもしれないが、彼については、詳しいことは分かっていない。

 又、先に出たドーフィネという土地だが、ドーフィネ伯を継いだアンベール2世が破産寸前の上に後継者もいなかったので、売り払おうとしたところ、ローマ皇帝も教皇も興味を示さず、仕方なくフランス王のフィリップ6世が買い取ったという所であった。
 それでも、フィリップ6世からすると、
①古代から地中海とヨーロッパ北部を結ぶ商業上の大動脈、ローヌ川をおさえている
②教皇の支配する文書行政中心のアヴィニヨンと直接交渉することが出来る
という地の利があり、重要であった。
 それゆえ、1350年に彼が亡くなると、嫡男のジャンの息子のシャルルが相続し、ドーファンとなったのだった。
 当時、彼はまだ11歳であったが、高位聖職者並びにドーフィネ家臣団の臣従礼(オマージュ)を受けたと言われている。
 それだけではなく、まだ幼いというのに、家臣達に顔を売り、争っている一族同士の問題の仲裁も行なったと言われている。
 後に「税金の父」や「賢明王(le Sage)」と言われるようになる片鱗が現われていたのかもしれない。
 1356年のラングドイル三部会の時は、同じle sageでも「何もできない、学者殿下」という侮蔑が入っているが。
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