不思議の国の女王様
* * *
――本だけじゃない。
ほかに自分が失ったのは、『名前』だった。
「……なんで思い出せないんだ」
知らないはずはないのに、思い出せない。
優しい姉の言葉も、笑顔も、この胸に刻まれているのに……。
「アリス」
意識を引き戻される。
ゆらりと振り返れば、うっかり森に迷い込もうとする自分を、見据える男がいた。
「『あちらの世界』から迷い込んだ者。あなたは時を持つ者。時と共に生き、時と共に消える者。
――お待ちしておりました、アリス」
「誰だ……」
男は無言で歩み寄ってくる。
やがて目の前に立たれ、眼帯から覗いた切れ長の左目が自分を映す。
「私は、ハートの女王様にお仕えするトランプの1枚、ジャック。陛下がお待ちです。さぁ参りましょう」