ルードヴィヒの涙
第1章 ヘルシンキ国際空港
その飛行機は、定刻に二十分ほど遅れて空港に着陸した。
あたりはほんのりと薄暗く感じられ、もう夕方と言っても良い時刻になっていた。
事前の機長からの報告では当地の天候は曇り、気温は摂氏2℃、小雨のぱらつくこともある、ということであった。
機内右側の窓寄りに座席を取っていたので、飛行機の小窓から外の様子がうかがえた。
「ああ、この景色と空の色はあの日と変わらないな」
と拓人は、心の中でつぶやいた。
たしかに七年前、まぎれもなく『ふたり』で見た風景であった。
「あの時、彼女は黙って窓の外の景色を見ていたはずだったが・・・」
拓人は、あの日の彼女の面影を思い出していた。
それは、視線は窓の外にそそがれているようであったが、しかし実際にはその風景ではなくむしろ自分の心の内を視ていた、そんなふうに今の拓人には思い返された。
しかしそれも『今となって』のことであり、そのときに自分がどのように彼女を視ていたのかは、もう記憶にはなかった。
それは、はっきりとしない、曖昧で漠然とした映像としてしか残っていなかった。
「いつもの彼女らしくとても凛としていて、しかも透き通るように美しい横顔であったはず」
拓人はそう信じていたい欲求にかられた。
そしてもう一度、考えてみた。
「あの聡明さの中に、彼女が信じた明確な何かが隠されていたのだろうか?」
と。
快晴の成田空港を定刻より少し遅れて離陸し、広大なユーラシア大陸の上空を
飛行している途中、
「下に見えるのはオビ川です」
と機内で女性の声によるアナウンスがあった。
拓人が窓から下方を見ると、そこはいちめんの白銀色で、その中にぽっかりと巨大な、大地の裂け目の様なものが見えた。それはそこだけが深く青みがかっており、当然それがオビ川なのであろう、と彼は思った。
しかし、その後の記憶が拓人には鮮明ではなかった。オビ川は、日本人の感覚からは計り知れないくらいの大きさを持ったユーラシア大陸の、日本側から見ればおよそ三分の二程度を飛行したあたりを流れている。
ドイツのフランクフルトを最初の目的地とする拓人にとっては、全行程の半分は通り過ぎたあたりであった。
「少し飲みすぎたのかな」
と彼は思った。
飛行機が日本海を横断し大陸にさしかかった頃から、拓人は客室乗務員にオーダーを重ねた。
たしかワインをグラスで三杯もらった後、スコッチのオンザロックをやはり三杯飲んだはずであった。
しかし十時間近い長旅ではあったが、思っていたほどには疲れは感じなかった。
北欧の四月の初旬は、まだ春と呼ぶにはあまりにも寒すぎるようであった。
拓人は、肩に掛けていた薄手のセーターを頭からかぶり袖を通すと、機内から降りる準備をした。
混雑する機内から客室乗務員が立つ出入り口より機外に出ると、彼は列の中ほどをゆっくりと歩きながらターミナルに入った。
そこからはウィンドー越しに、空港の外が見渡せた。
やはり針葉樹林が見える。その上部はぼんやりではあるが、白く雪が被っているようにも見えた。
そしてあの日と同じ鉛色の空が、あたりを覆い尽くしていた。
「北欧の街には、やはりこの空の色と木々が似合うな」
と今さらながらに拓人は思った。
ラフマニノフを聴くのに、ヤシの木や真っ青な空は不釣り合いである。彼はそう感じていたのであった。
フィンランドの首都、ヘルシンキの国際空港に着いた拓人であったが、乗継便の出発時刻までには、まだかなりの時間があった。
彼はどこかコーヒーでも飲めるところはないかと、周囲を見渡してみた。
いつも欧州への出張では、目的地の最寄りの都市への直行便を利用するので、久しぶりに訪れたこの空港の勝手はすでに記憶から薄れていた。
そういえば機内の乗客はほとんどが日本人であったが、と拓人は思い返したが、ほんのわずかな人数だけ欧州人と思われる人たちが乗っていた。そして総じて彼らは皆、薄着であった。
海外出張が珍しくない彼にとって、これはいつも見る光景である。寒がりで厚着の日本人は、カーディガンの上に更にブランケットを要求する人もいるが、そんな中、ほとんどの外国人は半袖のTシャツか薄着で過ごしていた。
これには白人も黒人も違いはなかった。ただ、日本人だけが寒がるのであった。
機内で見知った顔の日本人数人が、こちらに向って歩いて来た。五十歳はとうに越えていると思われる男女が、何かを話しながらロビーのあちらこちらに散らばっている。
若いカップルたちはなぜか皆、姿を消していた。
いったいどこへ行ったのか、拓人にはわからなかった。
年配に見える男女たちは自分と同じ、少し休める場所をさがしているのだろうか、と彼は思った。同じ機内には、ヨーロッパへのツアー客と思われる人たちが相当な人数、乗っていたように思えた。
彼らの中の何人かもが、ここから更にどこかへ乗り継ぐのであろうかと、ふとそんなことを拓人は考えたが次の瞬間、それはどうでも良いことだと思った。そしてもういちど、外の鈍色の空を見た。
この陰鬱な空の下で、あの日、彼女はいったい何を視ていたのであろうか。
心の中には何が宿り、何を感じ、何を思っていたのだろうか。
そしてその時、すでに「そのこと」は決められていたのであろうか。
どれほど考えても、拓人には答えは出せなかった。
ただただあの日と同じ、北欧の一都市のさびしげな風景が自分を包み込んでいる、と感じる以外にはなかった。
そしてその寂寞感ともいえる心情の根源はまぎれもなく、
「いまはひとりである」
という決定的なことがらから来ていた。
「詩音」
拓人は、『あの日』から今日ここに至るまでに、いったい何回呼んでみたであろう彼女の名を、今いちど心の中に呼び起こした。
そして、彼が数えきれないくらいに口にしたその美しい名は、北欧の夕暮れの風景にとけこんで行き、まるでグリーグのピアノ協奏曲を聴いている様な錯覚を拓人にもたらせた。