ルードヴィヒの涙

「ありがとう」

詩音がモオツァルトを弾き終えたあと、拓人は詩音にピアノを弾いてくれた礼を伝えた。

「お気に召して頂けたかしら?」

詩音はそう答えると拓人を見て、やや不安そうに微笑んだ。

その表情からは
「この曲で、良かったのであろうか?」
といった詩音の回顧の気持ちが含まれているように拓人には感じられた。

外からの陽は先ほどよりわずかに西へと傾き、そして角度を変えて、今は詩音の部屋の奥を照らしていた。

拓人は黙って窓の外を見た。

「何か、お聴きになりますこと?」

と言って詩音はピアノの前から立ち上がり、鍵盤を閉じた。そして本棚のCDが置いてある場所へと歩いた。

そこにはかなりの枚数のCDが置かれてあった。

「君が選んでくれるかな」

拓人は詩音を優しい目で見つめながら、そう答えた。

「はい。わかりました」

詩音は拓人の視線の柔らかさに安心したのか、先ほどまでの不安そうな表情を消して一枚のCDを取り出すと、それをプレーヤーに挿入した。詩音の部屋のベランダには、一羽の小さな鳥が留まっているのが見えたが、拓人にはその小鳥の名はわからなかった。

挿入されたCDは、やがてほんの一瞬の空白の時を経て、スピーカーから奏でるように音を出した。

詩音が選んだのは、バッハの「平均律」であった。

まるで夜空からそそがれる星々の光のように、最初のプレリュードが詩音の部屋に広がった。そしてピアニストの指先から鍵盤に伝えられる感性は、比類なき奥行きと透明感をたたえていた。

それは無限に広がる、無償の愛のようでもあった。このような演奏が出来るのは、リヒテルをおいてほかには居ないはずであった。

そしてこの盤は、拓人の愛聴盤でもあった。


「下に行って、紅茶をお持ちいたします。すみませんが、少しの間おひとりでお聴きになっていてくださいませんか?」

しばらくふたりでリヒテルを聴いたあと、詩音は拓人にことわりを入れて、階下に下りて行った。

ひとり詩音の部屋に残されそこで聴くバッハは、拓人にとって何か今までと違うような気がした。陽射しはたっぷりとあるにも関わらず、ステンドグラスからしか光の入らない教会内で聴くのと同じくらいに心は静けさに包まれ、しかも穏やかであった。

拓人は先ほどの椅子に座ったまま、外の景色を見て、そしてバッハを聴き続けた。
第7番が終わり、8番の変ホ短調がはじまるころ詩音がティーセットを持ち、階下より部屋に戻ってきた。

「おひとりにしてしまい、申し訳ありませんでした」

詩音はそう言うと、ティーカップを小さなテーブルに置いた。そこには幾枚かのビスケットも添えられていた。彼女は拓人のカップにシュガーとミルクを注ぎ、スプーンを使ったあと静かにそれを拓人の前にさし出した。

「どなたが弾いているのか、おわかりでしょう?」

詩音は自分のカップにもシュガーとミルクを入れると、拓人にそう聞いた。

「うん。リヒテル。でしょう?」

拓人がそう答えると、詩音は先ほどよりも微笑を大きくして、そして瞳を見開くようにして拓人を見た。
「あなたなら、きっとご存知なのではと思いました」

詩音は、拓人が最も敬愛する作曲家がバッハであることを知っていた。

ふたりでミルクティーを飲みながら窓の外を眺めてリヒテルを聴いていると、4枚組であるこのCDの一枚目の最後の曲、へ短調のフーガが終わろうとしていた。

やがてその曲が終わると詩音は
「ちがうCDになさいますか?」
と聞いた。

拓人はもう少しバッハを聴いていたかったので
「このままリヒテルを聴こう」
と詩音に伝えた。

詩音は「はい」と答え、2枚目のCDをプレーヤーに入れた。

そして彼女は、今度は掛けていた椅子には戻らずに、プレーヤーの近くの、部屋の壁際に置いてある自分のベッドの中央に移りそこに腰かけた。

詩音がかけた2枚目の最初の曲は、「みずうみ」の中に出てくるイムメン湖のほとりにいるような錯覚をもたらせた。
拓人がそれを言うと、詩音も
「私も今、そのように感じていました」
と答えた。

「きれいな、すい込まれてしまいそうな曲だわ」

詩音はそうつづけると、眼を閉じるようにして再びリヒテルに聴き入った。
拓人も詩音に従うように、豊かなピアノの音色に身をゆだねた。

リヒテルは、決して浅薄な甘美さを求めるピアニストではなかった。そして、そのリヒテルの演奏のために、

そこには時がほとんど止まってしまったかのように、きわめてゆるやかにふたりだけの時間が流れていた。

リヒテルのピアノが、詩音の部屋の中で厳かに奏でられて19番のプレリュードが終わるころ、
「こちらに、いらっしゃって下さいませんか?」
と詩音が小さな声でつぶやくように、自分のそばに拓人を呼んだ。

「そこは少し、暑くはないでしょうか?」

拓人が座る場所には、窓から差し込む日光が強く当たっていた。

「こちらのほうが、涼しくてよ」

詩音はそう言うと、自分はベッドの真ん中から少し横にずれて、
拓人が座れるほどのスペースを空けるようにした。

「ありがとう。そっちに行っても良いのかな?」

拓人はやや遠慮気味に詩音に聞いた。
詩音は
「はい。よろしくてよ」
と小さく答え、拓人に目をあわせた。

拓人はティーカップをテーブルに残したまま、詩音の横に移った。

事実そこは、同じ部屋の中とは思えないほど、窓際よりはひんやりとしていた。ベランダに止まっていた名のわからない小鳥は、まだそこで微かに頭を動かしながら陽を浴びていた。

「私が、高校生の頃のことでした」

拓人が詩音の隣に移ってからしばらくすると、ピアノの音にかき消されてしまうくらいの小さな声で、詩音が話しはじめた。

リヒテルの演奏は20番のフーガへと移っていた。

「高校生の頃?」

「はい。高校2年生の冬休みのことです」

詩音は部屋の床に敷かれたカーペットの絵柄を見ながら、話しているようであった。そのカーペットは濃い臙脂色を基調としたヨーロピアンデザインで、他に何色かの色が織り交ぜられていた。

そしてその効果によって、詩音の部屋はとても落ち着きのある空間となっていた。
拓人は黙って詩音の話を聞こうとした。

「私の、仲の良かった友人が冬山で遭難して亡くなったのです」

拓人は思わず声をあげそうになったくらい、詩音の話の内容に衝撃を受けた。詩音はそのまま黙りこみ、しばし会話は途切れた。拓人は詩音のことが心配になり、

「大丈夫かい?」
と横顔を覗いてみた。

詩音は
「はい」
と返事をしたまましばらく黙っていたが、やがて再び話を始めた。

「その友人は冬休みに家族とスキーに行き、ひとりだけはぐれてしまったらしいのです。
皆ですぐに捜したということでしたが、結局見つからずに。そして翌日、彼女は少し離れた森の中で凍死している姿を発見されました」

詩音の話によると、その友人とは中学生の時から同じ学校で、共に私立の女子高校に進んだということだった。

よく一緒に買い物や図書館へ行ったという。詩音は話をつづけた。

「その友人は冬休みに入る直前に、それまで思いを寄せていた他校の男子生徒に、交際を申し込まれたばかりだったのです」

「ということは、その子はとても喜んだんだろうね?」

「はい。ずっと想っていた人からの申し込みでしたから、その喜びようは言葉では表せないくらいでした」

詩音はまだ、部屋のカーペットに目を落していた。
拓人は詩音の横顔を見つめていた。

その横顔が描き出す輪郭はすっきりときれいで、しかし決して鋭敏過ぎて冷たさを感じさせるものではなかった。鼻の稜線から頬、顎にかけてのカーブには柔らかさがあり、それが詩音の優しさを象徴しているように拓人には思えた。

「私たちは報せを受けたあと、すぐに集まって彼女のところに駈けつけました」

「うん」

詩音は級友たちと連絡を取り合い、急いで彼女が見つかったという場所に向かったと言った。

そして、病院に安置されている友人の遺体と対面したとき、詩音以外のすべての級友が泣き崩れた、と拓人に語った。

それは皆が、思いを寄せていた男子生徒との交際が始まったばかりの友人の早すぎる死に、『なんて不運で不幸な出来事なのだろう』と考えていたからだ、と詩音は説明した。


拓人はそれを聞いて、
「たしかに、そうかも知れない」
と答えた。

詩音は、しばらくためらうような仕草を見せてから、こう拓人に言った。

「でも私、そのとき、安置されている彼女の顔を見て、私のそれまでの人生の中でいちばん美しいものを見た、と思ったのです」

詩音は今、カーペットから視線を移して指先の爪を見ているようであった。陽射しはさらに部屋の中で角度を変えて、そしてリヒテルはまだピアノを弾き続けていた。

詩音は、語りつづけた。

「その友人は、誰もが目を奪われるほど、きれいな子だったの。その彼女が、まったく外傷もなく、透き通るような白い肌で、まるで眠るように死んでいた。そして唇には薄く紅がひかれていました。その美しさは、もうこの世のものとは思えないほどだったの」


そして詩音は、彼女が尋常ではないくらいの美しさを保ったまま亡くなった、ということだけではなく、自分の好きな人と、思いを遂げたまま世を去ったことが、何よりの幸せだったのでは、と拓人に話した。             

「彼女は、自分がつかんだ幸せが失われてしまうかもしれないという不安や恐怖から、永久に解放されたの。そして永遠に、自分の好きなひとに思われながら、彼の心のなかで生き続けることになったのよ」

今日の詩音の指先には、薄いマニキュアがあった。それは、よく見ないとわからないくらいのピンク色であった。
拓人は、今それに気がついたのであった。

「そうだね。彼女はきっと、不幸ではなかったのかも知れない」

拓人は、詩音の指先を見ながら言った。

「不謹慎なことを申し上げて、すみませんでした。こんな私を軽蔑なさるでしょう?」

詩音は、目を伏せるように下を向いてつぶやいた。

拓人は詩音の手に、自分の手を重ねた。

「そんなことはない。決して不謹慎などではないと思うよ。そして、軽蔑もしない。それはきっと、君の美意識の問題だから」

詩音の手は少し冷たく、そしてわずかに震えているようであった。拓人は詩音の手を包むようにして温めた。

やがて2枚目のCDが終わり、ふたりは階下の居間へと戻った。



拓人がはじめて登ったローテンブルグの城壁の上は、さほどの高さではないのだが、市庁舎の塔の上から見下ろす景色とはどこかで趣が違った。

拓人は所々で立ち止まり市内や城壁の外の景色を見ながら、時間を掛けてその上を歩いた。なぜか城壁の上は日本人よりも欧米人のほうが多かったが、その理由は拓人にはわからなかった。


詩音の部屋から再び居間に下りると、詩音の父親は相変わらずパイプを咥えたままソファーに深く腰掛け、何か重厚な書物を読んでいた。
ふと表紙が見えたが、それはリガートであった。                

母親は台所にいた様子であり、居間に戻ると是非夕食をともにするよう拓人を誘ってくれた。拓人は言葉に甘えることを、母親に伝えた。   

拓人は再び居間のソファーに座った。詩音は
「台所に行って、少し手伝ってきたいのですがよろしいでしょうか?」
と、拓人に尋ねた。

拓人は
「僕は大丈夫だから。その方が良いと思うよ」
と答え、詩音に母親を手伝うようにうながした。
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