ルードヴィヒの涙
拓人はガイドブックで調べた通りに、シュピタール門から城壁に登ったあと、しばらく城壁の上を歩いたが、陽が傾くのを見計らって聖ヤコブ教会へと向かった。
そこは、どうしても夕暮れ時になってから行きたいと思っていた場所であった。
聖ヤコブ教会には、中世の名工と言われたティルマン・リーメンシュナイダーが彫ったと言われる聖血の祭壇があった。
七年前、詩音と訪ねた時と同じく、やはり今日も拓人以外には人影は無かった。拓人はひとり、誰もいない教会内に入り祭壇の前にたたずんだ。
その祭壇は煌びやかさとは全く無縁であった。そのことがなおいっそう、拓人の心をつかんで離さなかった。
名工の質素な心と思いが、この清貧な名作を生んだのであろう、と拓人は思った。
この祭壇の前では、人の心の醜さなどすべて見通されている、そんな気がした。
そして七年前と同じ、今日もこの場所では天からの歌が聞こえてくるようであった。その歌は名もなき人たちが歌う聖歌のように拓人の心を満たし、言葉では言えないような何か大きなものが降りてきているように感じずにはいられなかった。
「中町君は、さきほどから『あの面』が気になっているようだね」
拓人がソファーに座り、詩音の父親と二人だけになった時、詩音の父親は読んでいたリガートを閉じて、そう話しかけてきた。
「はい。実はお邪魔したとき、すぐに気がつきました。そして、気になっていました」
「そうでしたか。それは、この面が打たれた年代とか人物とか、その様なことなのですかな?」
詩音の父親は重ねて聞いた。
「いいえ。そうではありません」
拓人は失礼にならぬよう言葉を選びながら、本来であれば部屋が華やぐよう小面や若女を飾るはずであるが、そこに増女が掛けられていることに、何か特別なもの、大げさではなく敬意に近いものを感じた、と詩音の父親に話した。
詩音の父親は
「そうでしたか」
と、ひとこと答えてからリガートを居間の書棚に戻した。
台所からは詩音と、詩音の母親の話し声がときおり聞こえてきた。ごく普通の、母と娘の会話のようであった。
そこには、ごく一般的な、良い意味での「ありふれた家族の幸せ」が存在しているように、拓人には思えた。
詩音の父親は、自分の細君を呼ぶと
「今日はすっかり暑いな。ちょっと早いがビールでも貰おうか」
と伝えた。
そして拓人に
「中町君も、つき合ってくれるならうれしいのだがね」
と言い、同意を求めた。
拓人が「よろこんで」
と答えると、詩音の母親は
「すみませんね。無理強いをしてしまうようで」
と、拓人に詫び、今度は視線を変えると笑いながら夫をにらむような仕草をした。
やがて、詩音が二人の座る居間のテーブルにビールの瓶とグラスを運んできた。その瓶もグラスも、共にきちんと冷やされていた。
詩音は父親と拓人の前にグラスを置き、ビールの栓を抜いた。
詩音は気を遣ってか、拓人に先に注ごうとしたが、拓人は
「お父さんに先に」
と言い、詩音から瓶を受けると詩音の父親のグラスにビールを注いだ。
詩音の父親は
「ありがとう」
と言い、
「それでは、中町君には私が注ごう」
と言い、拓人のグラスにビールを注いでくれた。
拓人は礼を言い、二人は乾杯をしてともに一気にグラスを空けた。
詩音はそんな二人を見て、何も言わずにただ微笑んでいた。
詩音はグラスをたちまち空にした二人に、共にビールを継ぎ足すと、
「すみませんが、またお台所を手伝ってまいります」
と言い、母親のいる台所に戻って行った。
拓人と詩音の父親は出された酒の肴を食しながら、しばらく寛いだ。