ルードヴィヒの涙
そしてともに三杯目を呑んだあと、拓人が窓の外の庭に目をやると
「以前はあそこにバラが植えてあったのですよ」
と、庭のやや左側の、ちょうど蜜柑の木の木陰になるあたりを詩音の父親は指さし、拓人に話しかけてきた。
「バラが植えてあったという話は、詩音さんから聞いたことがあります」
と、拓人は詩音の父親に答えた。
「そうでしたか」
と詩音の父親は言い、
「パイプを失礼してよろしいかな?」
と、煙草を吸わない拓人に断りを入れてから、葉を詰めて火をつけた。
詩音の父親は、時間を掛けてゆっくりと煙草をふかすと、再び拓人を見て話を続けた。
「あれは、詩音が小学校にあがる前、たしか幼稚園に通っていた時分だったと思います。いえね、これは私が直接見たわけではなく、家内から聞いた話しなんですがね」
詩音の父親はそこまで話すと、手にしたパイプを再び口元に運び、煙をくゆらせた。
台所からは、まだ詩音と詩音の母親の会話がやっと耳に届くくらいの大きさで、聞こえてきた。
拓人はバラが植えてあった、と言うあたりを見ながら、父親の次の言葉を待った。
「あの子が、咲いて間もない、いちばんきれいな盛りのバラばかりを鋏を使って切っている、と言う話を家内から聞いたのです」
詩音の父親の視線は拓人にはなく、庭の外の、どこか遠くを見ているようであった。
詩音の父親はそのまま続けた。
「家内はバラを手入れすることはなく、いつも咲くがまま、枯れるがままにしてあったのですよ。もちろん私も何もせず、でした。なので、切り花にするという習慣が我が家にはなかったのです。
そんなこともあって、少し驚いた家内が、『どうしてきれいなバラばかりを切るの』と聞くと、詩音は『枯れて美しくなくなってしまうのは可哀そうでしょう?きれいなままのお花でいて欲しいの』と言ったらしいのです」
詩音の父親の使うパイプは、パイプを知らない拓人にさえも、高価なものであることを予想させるのに充分な気品を湛えていた。
詩音の父親はそれを、まるで自分の手の一部のように使っていた。
「しかし、そのバラも詩音が小学校に上がり、数年後には枯れてしまいました。庭師に頼んで、ずいぶんと手をかけていたんですがね」
詩音の父親は、遠い昔を思い出すような視線を拓人に戻して言った。
「そうそう、たしか外国の有名な女優の名前を冠していましたな。あれは、何と言ったか?」
父親は、そのバラの品種をなかなか思い出せないようであった。
「ハンフリー・ボガードと一緒に、映画に出ていた女優ですよ。有名な映画・・・」
拓人はボガード主演の幾つかの作品を思い出して、その中から最も知られていると思われる題名を挙げた。
「カサ・ブランカ、でしょうか?」
すると詩音の父親はやっとつかえが取れたというように
「そうそう。カサ・ブランカですよ。それで、あの女優の名前は何と言ったかな?」
「イングリット・バーグマンではないでしょうか?」
拓人はそう答えた。
「そうだった。イングリット・バーグマン。思い出した。その名前のバラだったのですよ」
詩音の父親は、ほっとした表情でにっこりと笑い、拓人に
「ウイスキーに変えましょうか?」
と言い、細君に用意を頼んだ。
拓人が詩音の家で夕食をともにし、そこを辞したのは二十時を過ぎる頃であった。
詩音の父親は帰り際、
「こんど是非、能を観に行きましょう。詩音や家内も一緒に」
と、拓人を誘ってくれた。
拓人は丁寧に礼を言い、喜んで御一緒させて頂きたい、と答えた。
詩音は、
「自分も少し夜風に当たってきます」
と両親に言うと駅までの道を、拓人と一緒についてきた。
人通りは少なく、あたりの空気は当然の様に午前中よりは冷たくなっていた。
「今日は、ありがとうございました。お疲れになったでしょう?」
玄関を出てふたりきりになると、すぐに詩音はそう拓人に話しかけてきた。
「いや。そうでもない。それより、僕は君の御両親を好きになれそうだ。というより、もう好きになっている、だな」
拓人はお世辞ではない、本心を詩音に伝えた。
「そう言っていただけると、うれしいです。私、本当はとても心配していたの。父はとても厳しい人で、多分どのような人をお連れしても気に入ってはもらえぬはず、と思っていたので」
詩音はとても喜んだ。そして自分は親子だからわかるが、父も母も間違いなくあなたに良い印象をもったはずだ、と言った。
「それなら良かった」
拓人は心の底から、そう思った。
駅までは、もうしばらくの距離があった。拓人は、少しだけ自分のあとを歩く詩音をふり返るように見て、詩音が弾いてくれたピアノの感想を言った。
「モオツァルト、とても良かったよ」
すると詩音はびっくりとした様に、
「あの曲を、ご存知でしたの?」
と言って、拓人を見た。
これだけの住宅街にも関わらず、飼い犬の鳴き声などは一切しなかった。あたりは静かで、その中をふたりは歩いていた。
「でも私、本当はあの曲を弾くのは余り好きではなくてよ」
詩音はやや目を伏せながら、弦楽五重奏曲を弾いたことを少し悔いるような口調でそう言った。
「余り好きではない、とはどういうこと?」
拓人は詩音を斜めまえから見るように聞いた。
詩音は少しの間をおいて、拓人の問いに答えた。
「それは、モオツァルトの短調は美しすぎるの、私には。そして、特にあの曲は。美しいということは、それと同じくらいに哀しいと言うことでしょう?私には、それがとてもつらいのです」
K516は、父レオポルトの死の直前に作曲されていた。モオツァルトの心中が、そのまま哀しみの旋律になっていることは想像に難くなかった。
そして詩音のやや「うつむきかげん」の表情は、さきほどまでとは違い、
事実哀しそうに見えた。
拓人は詩音の弾いてくれた曲のことを、小林秀雄から知った。
彼は小林の「モオツァルト」を読み、はじめてその曲を聴いたのであった。二十歳になるか、ならぬか、のころであった。
「君は、あの曲をいつ知ったの?」
拓人は詩音に聞いた。
「高校生の頃、私、図書館で『ある本』を見つけたの。そして、そこに書かれている曲を聴いてみたくなってCDをさがしてみたの」
詩音はそう答えた。
「それは、小林秀雄のことだね?」
「そうよ、あなたも読んでいたの?」
詩音は驚いた様に聞き返した。拓人は二十歳の頃のことを、詩音に話した。
拓人は小林の文章を「モオツァルト」以外にも、「實朝」「當痲」「西行」、そして「無常といふ事」の四作を既読していた。
詩音は「モオツァルト」以外にも、小林の文章を読んでいるのだろうか?
拓人はそのことについて、勿論気にはなったのだが、なぜか聞きそびれてしまった。正確に言えば、「聞きそびれた」というよりは「聞くことが怖かった」と言ったほうが、近かったのかも知れなかった。
それはシャガールを観に行った帰り、日比谷の公園での詩音の言葉と、たったいま詩音が語ったことが、自分の中で結びついてしまったような気がしたからであった。
そしてその結びつきが、拓人の内に小さなさざ波のようなものを起こしていた。
「あなたとは、ずいぶんと同じ本を読んでいたのね。私、あの本を読み、あの曲を知っている方とは、はじめて出会ったわ。なにか、とても不思議な気がしています」
詩音は、もう哀しそうではなかった。さきほどまでの表情にもどり、髪をかき上げながら言った。
「私ね、さきほど、あの曲を弾くのはあまり好きではない、と申し上げたでしょう?でも、いちばん好きなひとに、私のいちばん美しいと思う曲を弾いて差し上げたいと、そう思ったのです。それであの曲を弾いたの。あの曲で、よろしかったでしょうか?」
詩音はそこまで言うと、急に立ち止まり
「ごめんなさい」
と、言った。
その「ごめんなさい」の意味が、拓人にはわからなか
った。自分の心のなかを、思わず吐露してしまった、ということへのはずかしさであったのか?
拓人はそのように考え、そんな詩音が愛おしくなった。
そして拓人は、街灯の明かりに照らされながら、ぼんやりと考えてみた。
それはモオツァルトの短調と、詩音の精神性についての関連であった。
拓人は
「美しすぎるモオツァルト」
と、心の中で復唱してみた。そのことが、考証の手助けになるような気がしたのであった。