ルードヴィヒの涙
五月の連休が終わる頃、ようやく拓人の仕事も峠を越し先が見えるようになった。
ふたりは先延ばしになっていた新婚旅行なるものを十月に決めた。しかし、それまでにはまだ先が長い、との拓人の提案で、ふたりは信州に一泊の旅行に出かけることにした。
拓人が探し出してきたその場所は、信州のとあるインターチェンジで下り、しばらく山の中の道を走った高原であった。
標高は千五百メートルに近く、暑くなりかけの東京から比べると、まだまだ寒いくらいであった。
しかし、湿気が多くなりつつあった東京よりは、はるかに空気が乾燥しており、その澄んだ冷たさが何より心地よかった。
拓人が用意したホテルは、小さな湖の湖畔にあり瀟洒な造りであった。ふたりはチェックインを済ませると、早速部屋に入り、荷を解いた。しばらくふたりでのんびりと過ごし、陽も暮れるころシャワーを使い、そして一階のロビー横にあるダイニングへと下りて行った。
そこは、そのまま湖の見えるデッキ席へと繋ながっており、拓人と詩音はそこに案内された。ふたりはウェイターに案内された席に着くと、フレンチのフルコースを楽しむことにした。
その日ふたりは、食前にシェリー酒を頼んだ。
詩音は拓人との生活で、少しずつではあるがアルコールを嗜めるようになっていた。
「今日は一日中の運転、御疲れでしたでしょう?」
詩音は拓人をねぎらう様に優しく言った。
「私、高原をドライブしたのは初めてだったの。風がひんやりと冷たくて、でもお陽さまはきちんと照っていて、なんだかとても素敵だったわ。なだらかな高原の中を車で走ることが、あんなにも気持ちのよいことだなんて、あなたのおかげで知ることができたの」
詩音はドライブの最中も、ずっと声を上げて喜んでいた。
それは近くの木々を見て、遠くの山々の姿やくっきりと浮かんだ雲を見て、そして足元の小さな花を見つけて、すべてのときにそうだったのである。
料理が少しずつ運ばれ、ふたりはそれらを楽しみながら今日いちにちをふり返っていた。
食前のシェリー酒からふたりとも赤ワインにかえて、拓人には三杯目のグラスが運ばれてきたとき、
詩音はふと思い出したように言った。
「あの、草原のなかの『鐘』、ほんとうはどんな音がしたのかしら?」
拓人は車を運転中、途中で休憩のためロッジ風のドライブインに車を停め、そこからふたりは草原の小路を歩いた。そしてしばらく歩いた先に、石造りの小さな鐘楼があった。
拓人と詩音がその鐘楼につく少し前、その鐘を鳴らした若いカップルがいた。
鐘の前までふたりが行くと、そこには「この鐘を鳴らすと、恋は成就する」と書かれてあった。
そのとき、あたりは拓人と詩音のふたりだけになっていた。
拓人は、「季節はずれのせいであろう」と思った。
「鳴らしてみようか?」
拓人はそのとき、詩音にそう言った。
気がつくと、さきほどまでの太陽は雲にさえぎられ、あたりは森閑としていた。詩音はしばらく黙っていたが、意を決したように拓人に言った。
「私、あなたとずっと一緒にいたいの。あなたとずっといっしょに・・・」
詩音は決して大きな声ではなかったが、しかしさけぶような抑揚で言った。
拓人は一瞬、詩音の変わりように戸惑ったが、つぎの瞬間、彼は詩音の肩を抱き寄せていた。
ひき寄せられた詩音の肩は、かすかに震えているようであった。拓人は詩音の顔を上げさせた。
「僕は、ずっと君と一緒にいるよ」
拓人は、詩音にそう言った。
その時の詩音の目は、なぜか不安に怯えているように、拓人には感じられた。
そして雲はいつのまにか消えていて、さえぎられていた太陽は、またあたりを照らしていた。
「食事が終わったら、湖の周りを少し歩いてみないこと?
きっと、とても気持ちが良いと思うわ」
食後のコーヒーが運ばれ、詩音はカップについた口紅を、自分のバッグからハンカチを取り出して拭いながら言った。
詩音が草原の鐘のことを話しだしたとき、拓人は
「急に気温が下がってきたので、急いで車に戻って正解だった」
と詩音に言った。
そのときは、なぜか今は、詩音が鐘を鳴らさなかった理由を聞かない方が良いように拓人には思われたのであった。詩音も
「そうね」
と言い、その話はそこで終った。ふたりはそのまま、また食事をつづけたのであった。
拓人は、湖の周りを歩いてみたい、という詩音の提案に
「それは良い考えだね」
と同意し、しばらくしてからふたりは席をあとにした。
その日は昼間からの晴天がそのまま続き、夜になっても雲は出なかった。拓人と詩音はいちど部屋に戻り、詩音のカーディガンを取ってから湖に出かけた。
ホテル正面のエントランスから出ると湖は裏手にあたり、ホテルの周りを半周しなければならなかった。
ふたりは月明かりに照らされながら、湖の東側に歩いた。
そこからは、ふたりが先ほど夕食を摂ったホテルのダイニングが見えた。もう残っている人はなく、明かりは所々消されていた。
しばらくふたりで湖畔を歩くと、芝が植えられたゆるやかな斜面の様なところがあった。
「ここに、座りましょう」
詩音が拓人を見て言った。
「夜風がとても気持ちが良いわ」
そう言うと詩音はハンカチを二枚、下に敷いて、拓人の手を引きながら芝の上に座った。
あたりに人影はまるで無かった。
小さな湖のほとりには、ふたりが泊まっているホテルの明かりのほかは何も無く、わずかな風の音以外は何も聞こえてこなかった。
ふたりはしばらく夜空を眺めながら音楽や文学の話をした。
それから、星座や流星群の話もした。音楽と文学については主に拓人が、そして星座や流星群に関しては詩音がほとんど一方的に拓人に話して聞かせた。
拓人は、その時はじめて知ることであったが、詩音は天体についてまるで専門に勉強でもしたかのように詳しかった。
それらについて話している時の詩音は、本当に楽しそうであった。
ふたりで多くについて、互いに話しつかれたと言うくらいになって、拓人と詩音はもういちど空を見上げた。
気のせいかも知れなかったが、深い紺色の夜空を流れ星が横切ったように思えた。
拓人は、気になっていた先ほどの「鐘楼の鐘」について詩音に聞いてみようと思った。
「あのとき、なんで君は鐘を鳴らさなかったの?」
すると詩音は不意をつかれたように一瞬の間をおいたが、「うん」と小さくうなずくと自分の肩を拓人に寄せて、拓人の左手の甲を自分の右の頬に導いた。そして囁くような小さな声で話しはじめた。
「あそこには『この鐘を鳴らすと恋は成就する』と書かれてあったでしょう?」
「うん。そうだった。たしかに、そう書かれていたね」
拓人の手に伝わる詩音の頬は、ほんのりと冷たさを湛えていた。
詩音は先ほどと同じくらいの小さな声でつづけた。
それは、ひとことひとこと、ゆっくりとかみしめる様に、選ばれた言葉で自分の心情を拓人に正確に伝えたい、という詩音の意思を感じさせるようであった。
「もし、あなたとの恋が成就してしまったら、もうそこは終着地であって、あとはそれが失われてしまうことへの怖れしか残されないような気がしたの。だって、この世では永遠に続くものなど、きっと無いでしょう?」
拓人は自分の手の甲に、詩音を感じていた。それは、詩音のやわらかな頬から伝わる、詩音が生きているという証しでもあった。
「そう思ったら私、とてもこわくなって、鐘を鳴らせなくなってしまったの」
詩音はそう言うと、
「気を悪くさせてしまったのなら、ほんとうにごめんなさい」
と、拓人に謝った。
拓人は
「そんなことはないよ」
と言って、詩音の髪を撫でると詩音はやっと小さく微笑をうかべた。
ふたりはその場所を立ち、湖の西側へと歩きはじめた。
そこは湖の東側よりもさらに明るさが乏しく、湖畔には林と呼んでも良いほどの木々が立ち並んでいた。そして、そのほとんどが白樺であった。
拓人と詩音はその中の小石が敷かれた小路を、ゆっくりと、そして無言で歩いた。
「私ね、幼い頃からずっと考えていたことがあったの」
詩音は木々の間から見える、湖の水面を見ている様であった。
水面は月明かりを受けて、きらきらとさざめくように揺れていた。
拓人は、詩音が急に切り出してきたことに、少し驚いた。
「それは、どんなことなの?」
拓人も歩調を落として、湖面のわずかな波打ちを見ながら、詩音に聞いた。
「それはね、もし私が幸せになれたら、その幸せを永遠に手放さない方法はないものかしら?ということなの」
詩音の月明かりに映る唇は、とても形が良かった。それはまるで宝石のルビーのように輝いていた。
「それで、その方法は見つかったのかい?」
拓人は聞いた。ふたりの歩く速度は、もうほんとうにゆっくりになっていた。
「ええ、見つかったわ」
詩音は湖を見たまま、しかし、はっきりとした口調でそう答えた。
それは、いつも控えめで拓人のうしろからついて来る詩音とは、あきらかに別人のようであった。
「それは、どんな方法なのかな?」
拓人はそれを聞くことに少しのためらいを感じたが、しかし聞かずにいることにはそれ以上の怖さを感じた。
「それはね、幸せをね、一瞬のうちに凍らせてしまうの。そして、誰にも開けることのできない箱に閉じ込めてしまうの。そうすれば、もうそれは誰も触れることは出来ないし、『私たち』の邪魔をすることは出来なくてよ」
詩音はそう言うと今まで見ていた湖面から視線をうつして、拓人を見つめた。
そこには、はっきりとした意思があるように思えた。
「その箱は、僕にも開けることは出来ないのかな?」
拓人は恐るおそる、聞いてみた。
そのときの詩音の瞳には、拓人が映っていたように思えた。
詩音はだまって自分の唇を、拓人のそれに静かに重ねた。
あたりは、悠久の無音だった。
「そうよ。なぜって、その箱の鍵は私だって持っていないからよ」
詩音はもういちど拓人に唇を重ねると、
「いけないひとね」
と言ってほほえんだ。
湖は『永遠』に時が止まった様であった。
そしてふたりの生活は、十月までの四か月ほどまったくと言ってよいほど、幸福であった。