ルードヴィヒの涙
第10章 ノイシュバンシュタイン城
ディンケルスビュールで長い時間教会を眺め、濠のあたりを散策し、その街で一日を過ごしてしまった拓人は、もう一日そこに滞在した。
元々その街が好きだったことと、先を急ぎたくない気持ちがそうさせたのであった。
フュッセンは、詩音との旅の「終着地」であった。
そこに入れば、必ず詩音の哀しい出来事を思い出してしまう、そう危惧したのである。しかし、それはやはり避け様の無いことであった。
ディンケルスビュールからネルトリンゲンを訪ね、その街の有名な教会塔である「ダニエル」を見ながら、しばしの時間を費やした後、拓人はフュッセンに入った。
しかし思っていたとおり、フュッセンの街に入った途端、拓人の心は狂いそうなくらいに動揺した。
「詩音はなぜ死んだのか?」
それを解き明かすための旅であったはずではないか、拓人はホテルのベッドで自問した。
詩音はドイツより帰った日から七日後、睡眠薬を服用したままの状態で湖に入水した。
その湖は、その年の五月に拓人と訪れた場所とは違っていたが、決して遠くはない信州の高原の湖であった。
周囲の小さな、沼と言っても良いくらいの湖であった。
まるで、シュトルムの小説に出てきたような湖を連想させた。
あるいはフュッセンの、ノイシュバンシュタイン城から見えた森の中の湖を思い出させるようでもあった。
水は氷のように冷たく、湖面には朽ちた木が数本、立ち残っている、そんなさびしい湖であった。
どのようにしてそこまで辿り着いたのかは、誰にも分からなかった。
詩音が自死の道を選んだことは、当然の様に拓人を傷つけ苦悩させた。
「幸福な人間が、自ら命を絶つ理由(わけ)がない」
この誰しもが考える、そして当たり前の概念が、拓人の心の奥底まで、刃物の様に深く突き刺さったのである。遺書は無かった。
幸いにも詩音の両親は、拓人を一切責め立てはしなかった。
それどころか、拓人には意外とも思える言葉を、詩音の母は拓人に伝えた。
「詩音は、とても幸せだったのだと思います。拓人さん、ありがとう」
父親も拓人の手をにぎり、頭を下げた
しかしそのことがなおいっそう、拓人を苦しめた。
「自分が、詩音を死に追いやってしまったのだ」
その思いが七年間、拓人の心の内を占め、拓人を苦しめ続けてきたのであった。
昨夜は、明け方までほぼ一睡も出来なかったはずであった。
さすがにここフュッセンでは、拓人は詩音と過ごしたホテルに泊まることは出来ず、
七年前とは違うレストランを兼ねた、やはり小さなホテルを取った。
部屋に入るなり錯乱しそうになった拓人は、いつもよりはるかに多い量のスコッチを飲んだ。頭が朦朧として、もしかするとこのまま死んでしまうのではないか?とさえ思った。
そんな中、それならそれでも良いだろう、という自分の声が聞こえた。
そして、朦朧とした情態の中で、一睡も出来ず、詩音を思い、詩音の面影を追った。
気がつくと外は夜が明けた様であったが、拓人にはまさしく暗闇に思えた。詩音のいないこの七年間を、ひとりで生きてきたということが、信じられなかった。
ここにいるのは、本当に「自分」なのだろうか?
詩音はどこにもいなかった。当たり前の様に、部屋には自分ひとりであった。
悲劇の王が建設した「夢の城」を、もう一度訪ねるべきか、あるいは自分にその「勇気」があるのか、拓人には疑問であった。
彼は意を決することが出来ないまま、身支度をして、とりあえずホテルを出た。
「何ということだ!」
拓人は空を見上げると、自らの運命を思った。
また今日も雨だったのである。しかも、予報では晴天の筈であった。
七年前も、この城を訪れた時だけが、無情にも雨であった。
拓人はホテルを出ると、城までの道を歩き始めた。まだ城内へ入る決心も出来てはいなかったし、決して城までは近い距離でもなかった。
しかし、とにかく彼は歩きはじめた。
そして二時間余り歩いたのであろうか、拓人は城の麓まで来てしまった。時計は十二時を少し回っていた。
拓人は、やはり城内へと入ってみようと決めた。
七年ぶりに訪れた城はやはりうす暗く、以前とあまり変わるところは無いように思えた。明かりの豊富でない内部は湿気に包まれている様で、妖気が漂う雰囲気はそのままであった。
ただ、詩音がいない、それだけが七年前と違っていた。
城内には多くの観光客がおり、拓人もその中に紛れながら歩いていた。そうするうちに、作曲家ワーグナーの、歌劇の世界を再現した部屋の前まで来た。原色をふんだんに使って装飾された、神秘的な洞窟であった。
先ほどまでは疎らだったはずの拓人の周りには、なぜか誰もいなくなっていた。
拓人はそのことを不思議に感じた。