ルードヴィヒの涙
するとそのとき、
「何だか、少し怖いわ」
と、若い女性の声がした。
拓人は驚いてあたりを見た。
それは聞き覚えのある、いや、忘れもしない、忘れるはずのない詩音の声であった。
「詩音!詩音なのか?」
思わず叫んだ拓人の左横に、拓人の左腕に自分の右腕を強く絡みつけた詩音がいた。
「詩音!本当に詩音なのか?」
拓人は信じられない気持ちで、もう一度叫んだ。
「あなた、何を仰っているの?私に決まっているでしょ?おかしな人ね」
詩音は拓人を見上げて笑っていた。今まで見たことのないような、抜けるような笑顔だった。
「だって君は・・・」
「だって君は?」
詩
音は小首をかしげて問い直した。
「だって君は、ドイツから帰って、そのあと信州に行って、そして、ひとりで湖に・・・」
「ひとりで湖に?」
詩音の微笑はやまず、拓人を見上げたままで彼女は答えた。
拓人はまだ、信じられないという気持ちでいっぱいだった。
そして詩音は、つづけて言った。
「そうよ。私はひとりで信州に行って、ひとりで湖に入ったわ」
「それで君は死ななかったの?」
「あなたったら。どうして私が死んだりするの?私はあなたとずっと一緒よ」
拓人は詩音の顔をもういちど見た。大きな瞳も、やわらかくきれいな鼻の線も、白い頬も、
ルビー色に輝く唇も、すべてが間違いなく詩音であった。
「では、なぜ君は、僕の前から急にいなくなってしまったの?」
拓人は、不思議でならないという自分の気持ちを詩音にぶつけてみた。詩音はしっかりと拓人を見つめていた。
「結婚したつぎの年の、五月の末の、高原でのことを憶えていらっしゃる?」
詩音の瞳は、その奥に小さなロウソクの火を燈しているように拓人には感じられた。
「うん。もちろん憶えているよ」
「あの日、ふたりで夜の湖を見ながら、私はあなたにお話ししたわ」
「うん。それは、もしかしたら、君が幼いころからずっと考えていたこと、のこと?」
「そうよ」
「それは確か、幸せを永遠に手放さない方法のことだったよね」
「そうよ」
「それで、君はその方法が見つかった、と言った」
「そう。言ったわ。あなたに」
詩音の微笑は絶えなかった。何がそんなに楽しいのだろう、と拓人が不思議に思うくらいであった。
「その方法は、たしか、幸せを一瞬のうちに凍らせてしまって、誰にも開けることのできない箱に閉じ込めてしまう。そういうことだったよね?」
「
そうよ。あなた、よく憶えていらっしゃったこと」
詩音の答え方は、まるで小さな子供を褒めるような優しい口調であった。
「それで、君はそれを、実行したの?」
「そうよ。私は実行したの」
拓人には、自分の左腕に絡められている詩音の右腕の感触が、はっきりと感じられていた。
「じゃあ、君は不幸ではなかったの?」
拓人は七年間「ずっと怖くて聞けなかったこと」を、勇気を出して詩音に聞いてみた。
「あなた、何を仰っているの?私は世界中で、いちばん幸せだったのよ。そしてその幸せは、今でもずっとつづいていてよ」
詩音は拓人を見つめて、そしてはっきりとした口調でそう言った。
『詩音は不幸ではなかったと言った。それどころか、詩音は幸せだった、いや、今も幸せだと言ってくれた』
拓人は涙が溢れそうになっていた。いや、それはもう止めようもなく、本当に溢れ出ていた。
もう何もいらなかった。何も欲しいとは思わなかった。
拓人は天上に光を見た、と思った。
「私はね、あなたと出逢って、あなたを愛して、そしてあなたに愛してもらって、あなたに大切にしてもらって、もうほんとうに世界中のすべての幸せをひとり占めしてしまったと思うほど、幸せだったの。でも、あなたが私を大切にしてくれればくれるほど、幸せになればなるほど、私は不安になって行ったの。
そしてその不安は、時の経過と共に私の中で果てしなく大きくなって行ったの。いつか、この幸せが私の手元から逃げて行ってしまうのではないかと。いつか、終りが来てしまうのではと。
そうしたら、怖くてこわくて仕方がなくなってしまったの。
私はこの自分の幸せを、誰からも邪魔をされたくなかったの。
だからあなたとの幸せの絶頂で、私は私の幸せを、一瞬で凍らせたの」
詩音の大きな瞳にも、涙がうかんでいた。
それはうっすらと瞳から溢れ出し、静かに頬を伝った。拓人は詩音の流す涙を初めて見たような気がした。
「そして、そして、誰にも開けることの出来ない箱に閉じ込めたの」
詩音の涙は、静かに床に落ちて行った。
「ずっと、後悔していたんだ。君を幸せにできなかったのではと。君は不幸だったのではないかと」
拓人の涙は止まっていなかった。それどころか、それはさらに溢れ出て来て、とめようがなくなっていた。
「ちがうわ。私はずっと幸せだった。そしてそれは今でもつづいているの。
だって私は、永遠に幸せでいられる方法を見つけたのだから」
拓人は詩音の白い頬を伝う涙を、右手の人さし指でそっと拭ってあげた。詩音は微笑みをたたえたまま、拓人の胸に顔をうずめた。
「あなたはあの日、このお城を訪ねた日の哀しい雨のことを、『ルートヴィヒの涙雨だ』と言ったの。憶えていらっしゃること?」
詩音の涙はまだ、止まっていなかった。
「うん。憶えているよ」
拓人はその日のことを、はっきりと憶えていた。忘れるはずはなかった。
「でもね、あれはね、ほんとうは私の流した涙だったのよ」
「君の涙?」
「そうよ」
「それは、どういうことなの?」
拓人は耐え切れずに詩音に聞いた。詩音は首をわずかに横に振った。
「私はね、もうあの時には決めていたの、自分の幸せを永遠のものにすることを。
でもそれは、もうあなたと逢えなくなるということでもあったの。
私を大切にしてくれた、私を愛してくれた、そして私が心から愛したただひとりの人、そのあなたと。それを思ったら、たまらなく哀しくなってしまったの。
だからね、あのときの雨は、私の涙雨だったのよ」
詩音はそれを言うと、拓人の胸にうずめていた顔をあげて、
そしてそっと拓人に口づけた。
拓人の手には、たしかな詩音の感触があった。
「だからもう苦しまないで。私の大好きなあなた、私のいちばん大切なあなた」
詩音は、宝石のようにきれいな色の唇でそうつぶやいた。
涙は乾ききらずに、詩音の頬に残っていた。
「そんなにも怖かったんだね。気がついてあげられなくてごめんね」
拓人は、自分の胸に顔をうずめている詩音の髪を両の手で撫でた。そしてもういちど、七年間の想いをありったけ込めてその名を呼んだ。
「詩音・・・」
気がつくと、拓人は湖のほとりにひとりで立っていた。
七年前、城を出て詩音と歩きながらたどり着いた、あの湖であった。
もしかすると、詩音が訪ねてみたいと言っていた「シュトルムの湖」は、ここなのではないだろうか?と、拓人は思った。
小雨はもうやんで、雲の切れ間からわずかに陽が差しこんでいた。
拓人は少し濡れたジャケットの左袖をまくり、腕時計を見た。
腕時計は『十二時を少し回っていた』時刻を指していた。
しかし無論のこと、秒針はしっかりと動いていた。
「何だか、少し怖いわ」
と、若い女性の声がした。
拓人は驚いてあたりを見た。
それは聞き覚えのある、いや、忘れもしない、忘れるはずのない詩音の声であった。
「詩音!詩音なのか?」
思わず叫んだ拓人の左横に、拓人の左腕に自分の右腕を強く絡みつけた詩音がいた。
「詩音!本当に詩音なのか?」
拓人は信じられない気持ちで、もう一度叫んだ。
「あなた、何を仰っているの?私に決まっているでしょ?おかしな人ね」
詩音は拓人を見上げて笑っていた。今まで見たことのないような、抜けるような笑顔だった。
「だって君は・・・」
「だって君は?」
詩
音は小首をかしげて問い直した。
「だって君は、ドイツから帰って、そのあと信州に行って、そして、ひとりで湖に・・・」
「ひとりで湖に?」
詩音の微笑はやまず、拓人を見上げたままで彼女は答えた。
拓人はまだ、信じられないという気持ちでいっぱいだった。
そして詩音は、つづけて言った。
「そうよ。私はひとりで信州に行って、ひとりで湖に入ったわ」
「それで君は死ななかったの?」
「あなたったら。どうして私が死んだりするの?私はあなたとずっと一緒よ」
拓人は詩音の顔をもういちど見た。大きな瞳も、やわらかくきれいな鼻の線も、白い頬も、
ルビー色に輝く唇も、すべてが間違いなく詩音であった。
「では、なぜ君は、僕の前から急にいなくなってしまったの?」
拓人は、不思議でならないという自分の気持ちを詩音にぶつけてみた。詩音はしっかりと拓人を見つめていた。
「結婚したつぎの年の、五月の末の、高原でのことを憶えていらっしゃる?」
詩音の瞳は、その奥に小さなロウソクの火を燈しているように拓人には感じられた。
「うん。もちろん憶えているよ」
「あの日、ふたりで夜の湖を見ながら、私はあなたにお話ししたわ」
「うん。それは、もしかしたら、君が幼いころからずっと考えていたこと、のこと?」
「そうよ」
「それは確か、幸せを永遠に手放さない方法のことだったよね」
「そうよ」
「それで、君はその方法が見つかった、と言った」
「そう。言ったわ。あなたに」
詩音の微笑は絶えなかった。何がそんなに楽しいのだろう、と拓人が不思議に思うくらいであった。
「その方法は、たしか、幸せを一瞬のうちに凍らせてしまって、誰にも開けることのできない箱に閉じ込めてしまう。そういうことだったよね?」
「
そうよ。あなた、よく憶えていらっしゃったこと」
詩音の答え方は、まるで小さな子供を褒めるような優しい口調であった。
「それで、君はそれを、実行したの?」
「そうよ。私は実行したの」
拓人には、自分の左腕に絡められている詩音の右腕の感触が、はっきりと感じられていた。
「じゃあ、君は不幸ではなかったの?」
拓人は七年間「ずっと怖くて聞けなかったこと」を、勇気を出して詩音に聞いてみた。
「あなた、何を仰っているの?私は世界中で、いちばん幸せだったのよ。そしてその幸せは、今でもずっとつづいていてよ」
詩音は拓人を見つめて、そしてはっきりとした口調でそう言った。
『詩音は不幸ではなかったと言った。それどころか、詩音は幸せだった、いや、今も幸せだと言ってくれた』
拓人は涙が溢れそうになっていた。いや、それはもう止めようもなく、本当に溢れ出ていた。
もう何もいらなかった。何も欲しいとは思わなかった。
拓人は天上に光を見た、と思った。
「私はね、あなたと出逢って、あなたを愛して、そしてあなたに愛してもらって、あなたに大切にしてもらって、もうほんとうに世界中のすべての幸せをひとり占めしてしまったと思うほど、幸せだったの。でも、あなたが私を大切にしてくれればくれるほど、幸せになればなるほど、私は不安になって行ったの。
そしてその不安は、時の経過と共に私の中で果てしなく大きくなって行ったの。いつか、この幸せが私の手元から逃げて行ってしまうのではないかと。いつか、終りが来てしまうのではと。
そうしたら、怖くてこわくて仕方がなくなってしまったの。
私はこの自分の幸せを、誰からも邪魔をされたくなかったの。
だからあなたとの幸せの絶頂で、私は私の幸せを、一瞬で凍らせたの」
詩音の大きな瞳にも、涙がうかんでいた。
それはうっすらと瞳から溢れ出し、静かに頬を伝った。拓人は詩音の流す涙を初めて見たような気がした。
「そして、そして、誰にも開けることの出来ない箱に閉じ込めたの」
詩音の涙は、静かに床に落ちて行った。
「ずっと、後悔していたんだ。君を幸せにできなかったのではと。君は不幸だったのではないかと」
拓人の涙は止まっていなかった。それどころか、それはさらに溢れ出て来て、とめようがなくなっていた。
「ちがうわ。私はずっと幸せだった。そしてそれは今でもつづいているの。
だって私は、永遠に幸せでいられる方法を見つけたのだから」
拓人は詩音の白い頬を伝う涙を、右手の人さし指でそっと拭ってあげた。詩音は微笑みをたたえたまま、拓人の胸に顔をうずめた。
「あなたはあの日、このお城を訪ねた日の哀しい雨のことを、『ルートヴィヒの涙雨だ』と言ったの。憶えていらっしゃること?」
詩音の涙はまだ、止まっていなかった。
「うん。憶えているよ」
拓人はその日のことを、はっきりと憶えていた。忘れるはずはなかった。
「でもね、あれはね、ほんとうは私の流した涙だったのよ」
「君の涙?」
「そうよ」
「それは、どういうことなの?」
拓人は耐え切れずに詩音に聞いた。詩音は首をわずかに横に振った。
「私はね、もうあの時には決めていたの、自分の幸せを永遠のものにすることを。
でもそれは、もうあなたと逢えなくなるということでもあったの。
私を大切にしてくれた、私を愛してくれた、そして私が心から愛したただひとりの人、そのあなたと。それを思ったら、たまらなく哀しくなってしまったの。
だからね、あのときの雨は、私の涙雨だったのよ」
詩音はそれを言うと、拓人の胸にうずめていた顔をあげて、
そしてそっと拓人に口づけた。
拓人の手には、たしかな詩音の感触があった。
「だからもう苦しまないで。私の大好きなあなた、私のいちばん大切なあなた」
詩音は、宝石のようにきれいな色の唇でそうつぶやいた。
涙は乾ききらずに、詩音の頬に残っていた。
「そんなにも怖かったんだね。気がついてあげられなくてごめんね」
拓人は、自分の胸に顔をうずめている詩音の髪を両の手で撫でた。そしてもういちど、七年間の想いをありったけ込めてその名を呼んだ。
「詩音・・・」
気がつくと、拓人は湖のほとりにひとりで立っていた。
七年前、城を出て詩音と歩きながらたどり着いた、あの湖であった。
もしかすると、詩音が訪ねてみたいと言っていた「シュトルムの湖」は、ここなのではないだろうか?と、拓人は思った。
小雨はもうやんで、雲の切れ間からわずかに陽が差しこんでいた。
拓人は少し濡れたジャケットの左袖をまくり、腕時計を見た。
腕時計は『十二時を少し回っていた』時刻を指していた。
しかし無論のこと、秒針はしっかりと動いていた。