ルードヴィヒの涙
最終章 ミュンヘン、そして東京へ
ノイシュバンシュタイン城から見えた、『七年前のあの湖』から、拓人が歩いてホテルに帰り着いたのは夕方の八時を回っていた。ずいぶんと長いこと、歩いていたような気がした。
彼は濡れたジャケットを脱ぎ、髪をタオルでさっと拭くとベッドに横たわった。睡魔が襲って来るまで、さして時間は必要なかった。拓人はそのまま眠りについた。
幼い時から読書や音楽に親しみ、自身の精神性を自らの内面に於いてのみ構築させていったルートヴィヒ。
孤独を愛し人と交わることを好まず、自分の世界を自分だけの中に築いていったルートヴィヒ。
死の報せを受けたエリーザベドに
『王は決して精神病ではない。ただ夢を見ていただけ』
と言わせたルートヴィヒ。
そして、人生の最期を人知れぬ湖で終らせたルートヴィヒ。
拓人には王と詩音が、どこかで似ているように思われた。
そう、いくつもの共通点があるようにさえ。
そういえば、この優麗な城を訪れることを詩音はもっとも楽しみにしていたのだった。詩音は、自分と王との接点を求めて、ここに来たのであろうか?
しかし、それも今となっては、つまびらかには出来なかった。
ただひとつ、詩音は『幸せだった』と言った。
それが唯一、ルートヴィヒとは異なることなのであろうか?
拓人は夢現(ゆめうつつ)の状態で、城から湖にいたるまでに思いめぐらせていたことを考えていた。
ふと目が覚め、部屋のナイトテーブルに置いたままになっていた携帯電話を見ると、
美里からのメールが着信していた。
あれから数時間は眠ったようであった。
一週間前に東京を離れる時、
「かなり忙しくなるので、たぶん連絡は出来ないかも知れない」 と言い残して来たが、やはり心のどこかでは、気になっていた。
「明日の夕方ごろ、ミュンヘンに着きます」
とだけ、書かれてあった。
「そうか、来るのか」
拓人はまだ暮れ切らないフュッセンの街を、窓を少しだけ開けてから見渡して、ひとりつぶやいた。
美里には何と言おうか、拓人にはまだ考えはまとまらないままであった。
「ここに来た目的」は、はっきりとしていた。
しかし、ではいったい美里には何を、どこから話せばよいのか、自分は本当に答えを掴めたのか、ましてや
「今日の、つい先ほどまでの出来事は」
拓人には詩音と今日の午後、ふたりで城内を巡ったことは、夢と現実の狭間にいる様であった。
それはまるで、夢幻能を観ているようでもあった。
「到底、説明などつきそうもないな」
拓人はあきらめて、バイエルンの山々に囲まれた、夕暮れから夜のとばりへとむかうフュッセンの街中へと、あてどもなく出かけて行った。
ミュンヘンの街も、七年ぶりであった。「詩音の出来事」があって以来、ドイツ出張のおりは、意識的にミュンヘンを避けてフランクフルトから帰っていたのである。
久しぶりのミュンヘンは、しかし美しい都市であった。重厚で風格のある石造りの建築物や、美しく整った街路そのものが、バイエルン王国の栄華と歴史を彷彿とさせた。
落ち着きと気品ではパリを凌ぐであろう、と拓人は感じていた。
もしこの都市が、詩音との「最後の地」でなければ、自分はヨーロッパの都市の中で、
最も「ここ」を愛するであろう、と拓人は思っていた。
美里には
「午後には空港にいる。到着したら連絡して欲しい」
と、返信のメールを送信してあった。
拓人は今日の十二時前に、フュッセンのホテルをチェックアウトして、
ここミュンヘンの空港に向かったのであった。
「美里とも、そろそろはっきりとしなければならないのかな」
と、拓人はおぼろげに思い始めていた。
はじめて会った日から、一年が過ぎていた。美里はもうすこしで二十五歳になるはずである。そして二十五歳というのは、詩音が迎えることのなかった年齢であった。
それが拓人に、何か特別な感情を抱かせた。
何時に着くのかも正確にわからない「出迎え」は、どのように時間を使えばよいのか、途方に暮れた。仕方なく拓人はカフェに入り、雑誌を開きながらプレビンの指揮したラフマニノフを聴いた。
今日のミュンヘンは、昨日のフュッセンとはうって変っての、晴天であった。
美里から
「着いたよ!」
とメールが入ったのは、ラフマニノフのシンフォニー2番を聴き終え、次に選んだ小澤のブルックナーをほぼ聞き終える頃であった。
拓人は知らされたゲートに向かうため、カフェを出た。
空港内は多くの人で混雑しており、ゲートまでは時間が掛かった。
やっとのことでそこまでたどり着き、人ごみの中に美里を探した。
するとしばらくしてから美里は、到着客の最後部からまっすぐに前を見ながら出てきた。
拓人は手にしていた雑誌を丸めて、右手で大きく振った。しばらくして拓人に気がついた美里も、両手を振りまわして拓人の名を呼んだ。
二人は再会を、心から喜んだ。
一時間後、ふたりは夕暮れの中、ミュンヘン市内のにぎやかな通りにあるカフェとレストランを兼ねた店のオープン席にいた。
「本来の基本は、やはりビヤホールなんだけどね」
と、拓人は美里に言ったが、今日は自分でもこのミュンヘンの夕景につつまれ、何かをかみしめてみたい、と思っていた。
「痩せてなくて、安心したわ」
最初の一杯をビールで乾杯した後、美里はそう言った。
「きちんと食べているのか、心配だったわ」
「たった一週間程度で、痩せたりはしないよ」
拓人は笑って答えた。美里は、言葉を選んで人と接することの出来る女性だった。
余計なことを聞いてみたり、人の心の中に押し入って来る、そのような事はしない人間であった。
ウェイターが、美里がオーダーした料理を運んできた。
拓人はもちろん知ってはいるのだが、ドイツではどこのレストランでも、とにかくボリュームが多かった。
とても日本人の感覚と胃袋では、ついていけなかった。
それを知らずにオーダーした美里は、ウェイターが持ってきた肉の量と付け合せの野菜の
「盛り方」を見て、笑い転げた。そして大きく笑ったのち、
「これを、全部食べるの?」
と、拓人に聞いた。
「オーダーしたものを残すと、日独友好にひびが入るよ」
「だってあなた、教えてくれなかったじゃないの!」
「君を、驚かそうと思ってね」
美里は大きくふくれて、しかし大きく笑った。街を抜ける風が心地良かった。
拓人は、最初に言わなければならなかった言葉を思いだし、今、言おうと思った。今を逃したら、言えなくなる様な気がして勇気を出して言った。
「来てくれて、ありがとう」
言ってからすぐ、拓人は照れ臭くなり、ジョッキを手にした。
「私が、勝手に逢いたくなっただけだから、気にしないで」
美里はそう答えた。感情の伝え方に、押しつけがましいところがなかった。
美里はいつでもそうであった。
拓人は美里に気遣って聞いた。
「疲れなかったかい?」
「大丈夫よ。食べたり、飲んだり、寝たり。あっという間だった」
美里はにっこりと、そして屈託なく笑った。
「もしかするとこれからの人生を、美里と歩いて行くことになるのかも知れない」
ミュンヘンの、歴史の重みを十分に感じさせる街の一角で、誰ひとり知る人のいないこの街で、「自分の目の前に間違いなくいる」
美里を見て、拓人はそんなふうに思った。いや、正確には、しばらく以前からそのような感情は少しずつ拓人の心に広がりつつあったのかも知れなかった。
しかし、どうしても詩音のことが、心の壁になっていた。
初めて訪れたミュンヘンだというのに、美里はもうすっかり馴染んでいた。
異国のこの街に「同化している」と言っても良かった。
それは美里の「天賦の才」であった。
オーダーした料理は、まだまだたくさん残っていた。