ルードヴィヒの涙
第3章 フランクフルト
数時間の乗り継ぎ時間が過ぎ、拓人はフランクフルト行きの飛行機に乗り込んだ。
成田からここまで来た航空会社と同じであったが、今度の飛行機は成田出発便と比べ、
いくぶん小型であった。
拓人の座席は、横七列の機内の左側窓寄りであった。
もっとも機内は空席も多少は有り、どこにでも自由に座れる雰囲気ではあったのだが。
フランクフルトまでは長いフライトではなかったので、きちんとした食事は提供されなかった。拓人はコーヒーのサービスを頼んだ。
この便の出発までかなりの時間があったのだが、結局彼は何をするでもなくただぼんやりと空港での待ち時間をやり過ごした。
しかし何もしない、というのも余りにも怠惰に感じたので、持参した携帯プレーヤーで
マーラーの交響曲を聴いてはいたのだが。
しばらくすると客室乗務員がコーヒーを運んでくれた。
「濃い目のコーヒーを」とリクエストしたのだが、すでに出来上がったものをポットから注ぐだけだとしたら、と考えて拓人はひとり苦笑した。
あの日、木内から呼ばれ市川と『いま川』で「打ち合わせ」をした夜、拓人は市川に
「もうひとつの事」を伝えた。
それは、詩音と歩いたドイツの街々を、もう一度ひとりで訪ね歩いてみたい、ということであった。
しかしそのためには、シュトゥットガルトで待つ山口や荻田と合流する前に、一週間ほどの時間が必要であった。
その間のフォローを市川に頼んだ際、一瞬の間があったが、市川は何も言わずに引き受けてくれた。
そして、飲み直しの二軒目を出てそれぞれがタクシーを拾って乗り込む別れ際、市川は拓人にこう言った。
「ちゃんと帰って来いよ」
きちんと拓人を見ていつになく真剣な視線を送ってきた市川に、
拓人はうなずくように返事をし、軽く右手をあげた。
そしてひとり、帰路についた。市川の言わんとしていることが、拓人には瞬時に理解が出来た。
そしてその友情に、拓人は心の中で感謝した。
週明けの月曜日に出社すると、拓人は早速、木内と山川に休暇の取得を願い出た。
二人の最初の反応は共通したものであり、一瞬狐につままれた様子であったが
「ひとりでドイツの街並みを歩いてみたい」と拓人が言うと、了承してくれた。
「わかった」
申し合わせたように二人の返事は同じであり、ともにそれ以外は何も言わなかった。
そしてその日から拓人は早速準備に取り掛かり、チケットの手配をした。荷物は必要最小限としてなるべく少なめにし、出来る限り小さく纏めた。
そして七年間、ついに処分することが出来なかったガイドブックを本棚から取り出しバッグに詰めた。
それは、詩音とドイツを訪ねた時に、ふたりで買い求めたものであった。
ドイツの玄関口とも言われるフランクフルトの街明かりが、遠くに見えてきた。間もなく着陸態勢に入る、とアナウンスがあった。
拓人はシートを直し、ベルトを確認した。
そして聴いていたブラームスの3番を消して、静かに目を閉じた。
彼はドイツという国が持つ、独特の静寂に身をゆだねてみたいと思った。いや、そうするべきなのだと思った。
そうする以外に
「詩音の声を聴くことは出来ないであろう」
拓人は高度を下げながら滑走路に近づく機内で、そう固く信じるようになっていた。