ルードヴィヒの涙
第4章 東京Ⅱ 出逢い
拓人が詩音と初めて会ったのは、重要な顧客を招いての新製品の発表日であった。
拓人が勤める会社ではこの様な時、都内の有名なホテルの大広間を借り切る。
そして運営は仮設の設営から受付、諸々の進行までをすべてイベント会社に委託するのが常であった。
その時の総責任者は次長の山川であったが、イベント会社との折衝や実務の取り仕切りは、拓人がもう一人の先輩社員とともに任されていた。
その日は予定通りの十八時に商談も兼ねた発表会が終わり、招待客もすべて会場をあとにしたのち、会社側の関係者とイベント会社のスタッフで簡素な慰労の会が行われた。
発案は山川であった。
社員だけで酒宴を開けば、必ず仕事の延長となり「反省会」になってしまう。それでは慰労の会にはならないであろう、という山川の心配りであった。
顧客を招いていた大広間よりはやや小さめの部屋に移っての、ささやかな立食の会であった。
その時、拓人に軽く小皿にオードブルを取り分けて持ってきてくれた、イベント会社の女性社員がいた。
その女性と一緒に、拓人のいたテーブルに来たのが彼女であった。
胸のプレートには「高岡詩音」と書かれてあった。
拓人の横に来た女性とは、何度かの事前の打ち合わせで面識があった。しかし詩音は、会社側との事前の打ち合わせにはいちども出席していなかった。つまりその日、拓人と詩音は初めて顔を合わせたのであった。
拓人にオードブルを持ってきてくれたイベント会社の社員は、とても美しい女性であった。
しかし、詩音の美貌はその比ではなかった。群を抜いた美しさであった。
余り目立つことが許されない場であったため、一様に女性たちは控えめな服装であったし、もちろん詩音も同様で装飾品なども質素なものであり、施された化粧もきわめて薄いものであった。
しかし、街を歩くどのような高価な宝飾品で身を飾った女性でも、詩音には到底太刀打ちは不可能であった。
拓人は最初、詩音を初めて見た時、あまりの美貌にしばし言葉を失ったほどだった。
彼女は、それほどに美しかったのである。
会社にとっても大切な一日がつつがなく終わったことで、会社側関係者もイベント会社のスタッフも、ともにリラックスした雰囲気でパーティーを楽しんでいた。
各々のテーブルでも、今日の反省というよりはプライベートや趣味の話などで盛り上がり、拓人のテーブルでも、七、八人が時には大きく笑いながら語り合っていた。
彼はとなりに来た女性とずっと話をしていたが、そのあいだ詩音は二人の間には決して入り込もうとはせず、
カクテルグラスを持ったまま、時に静かに微笑を向けるだけであった。
しばらくしてから拓人は、話をしていた女性と詩音に断りを入れ、他のテーブルのスタッフたちに挨拶をするためそこを離れた。
そしていくつかのテーブルをまわり、労をねぎらったあと、もういちど先ほどのテーブルを見ると、詩音はまだそこにいたのである。
詩音と一緒にいたもう一人の女性はもうそこにはおらず、他のテーブルに移ったようであった。
詩音はそこに、ひとりで立っていた。
拓人は詩音のいたテーブルに戻り、そして彼女に話しかけてみようと思った。
「打ち合わせの時には、いらっしゃらなかったようですが」
詩音はまだ、先ほどと同じカクテルグラスをそのまま持っていた。
「ちょっと待っていて」
拓人は詩音が自分の問いに答える前にその場をはなれ、彼女のために新しいカクテルグラスを持って来た。
そして、新しいものに取りかえるよう、詩音にすすめた。詩音はだまってうなずいた。
その時だった。
拓人が右手で差し出したグラスを詩音が受け取ろうとし、詩音が持っていた古いグラスを拓人が受け取ろうとした瞬間、ほんのわずかであったが、ふたりの指と指が重なり、触れ合ったような気がした。
それはほんの一瞬のことであったが、拓人には永遠に感じる時間であった。
そのとき詩音は、微かにではあるが頬を染めた様に拓人には思えた。
「ありがとう」
詩音は拓人の目を直接見ることなく、そう言った。
拓人が初めて聴く詩音の声は、そこはかとなく憂いが感じられ、恐らくは決して積極的ではないのであろう彼女の性格を伝えているようでもあった。
しかしそれでいて限りなく甘美であり、一瞬で拓人の心を虜にしてしまうような声だった。
そのあと拓人と詩音は、しばらくふたりだけで話をした。
その中で、詩音が四月に入社したばかりであり、そのため事前のスタッフ会議には出席していなかったこと、そして今回のこの発表会が、詩音にとっては初めての大きな企画への参加であったことなどを、拓人は知ったのである。
時計の針も八時近くになりそろそろ会も終わりそうな雰囲気になった時、詩音は自分の胸のネームプレートを左手のひとさし指で差して、
「これで、『しをん』と読みます」とささやくように拓人に言った。
「はい。良い名前だと思います。教えてくれてありがとう」
拓人はおそらくはそう読むのであろうと思ってはいたが、
詩音が自分から話してくれたことに何か特別の感慨のようものを自身の中に感じた。
そしてそのままパーティーは無事に終わり、参加した面々もそれぞれ部屋をあとにして行った。
拓人と詩音は並びながら歩いて、ロビーまで行った。
そして別れ際、拓人は詩音にひとこと声をかけた。
「それでは」
「はい。それでは、また」
詩音は拓人を今度はまっすぐに見て会釈をし、同僚たちとホテルをあとにして行った。
結局その日は「名前の読み方」以外の、「詩音の個人的な事」については拓人も何も聞くことはなく、もちろん詩音からも話すことはなかった。
しかし拓人はこの日以来、詩音が心のなかの多くを占めるようになり、詩音の面影が脳裏から離れなくなってしまった。