ルードヴィヒの涙
第5章 東京Ⅲ 原宿

その日から十日ほど後であっただろうか、拓人は偶然にも街で詩音の姿を見かけた。
それは原宿に本社のある顧客での商談が終わり、少し街を歩きたくなった日のことであった。

帰りは銀座線を使おうと、表参道を歩いている時、通り沿いのカフェの椅子にひとりで座っていた詩音を、ウィンドー越しに見留めたのである。                

その時の拓人には、なんのためらいもなかった。

のちになり思ったことであるが、なぜあの時、詩音は本当にひとりなのか?と自分は疑わなかったのだろうか。

もしかしたら相席の人がおり、たまたま席を離れていただけかも知れなかったし、あるいは待ち合わせの可能性もあったわけである。しかし拓人は瞬時に、しかも一直線に店のドアーをくぐり、彼女の座る席に向かったのだった。         
 
「あの時の詩音は、まったくと言ってよいほど表情を変えなかった。自分にはそれが最初、とても不思議だったのだ」

拓人は「偶然」にも、詩音と再会した時のことを思い出していた。             
 

 飛行機はフランクフルト空港の滑走路に車輪をつけ、徐々に速度を落としながら誘導灯に導かれ、大きくカーブを切った。     

拓人は、ターミナルビルに点在する明かりを見ていた。
それは、どうしても塞ぎがちになってしまう拓人の心に、小さな温かさを与えてくれるろうそくの火のようでもあった。         


ごく普通に考えれば、あまりの偶然に驚きの表情を浮かべても良いはずである。しかし詩音は顔色をほとんど変えることもなく、
憑りつかれたように拓人を見ていたのであった。

拓人の方が、一瞬なにが起きているのかを理解できない状態になったくらいであった。

「しかしあのときの詩音の瞳は、真冬の湖のように清らかに澄んでいた。あの曇りのない、そして不純物を一切感じさせない視線に自分は惹きつけられてしまったのだ」     

拓人はいま、そう追想していた。                            
 
その日、詩音の座っている席のそばまで歩み寄った拓人に、詩音は手にした文庫本に落としていた視線を上げて目を合わせた。ふたりのあいだに、しばらくの時間があった。     

「おひとりですか?」         

「はい。ひとりです」

「ここに、座ってもよろしいですか?」   

拓人は押しつけがないように、ゆっくりと聞いた。

「はい。どうぞ、お座りになって下さい」          

詩音は座っていた椅子から立ち上がって、拓人にさしむかいの席を勧めた。
そこは、店内のカウンター内からは角度的にちょうど陰になる席であった。詩音は、ハンドバッグを自分の横の椅子に置いており、椅子の背もたれには薄手のカーディガンが掛けられていた。

そして詩音の手にあるその本は、革製のブックカヴァーでとても大切そうに包まれていた。

拓人はオーダーを取りに来たウェイトレスに、コーヒーを頼んだ。                   
「先日は、ありがとうございました」   

詩音は、持っていた革製カヴァーの文庫本を横に置いてあった
ハンドバッグにしまい、拓人に軽く頭を下げるように言った。
拓人には、詩音の「お礼の意味」がよくわからなかった。         

「新しいカクテルグラスを、持ってきてくださったことです」                
 詩音は拓人の表情から察したのか、次の瞬間そう答えた。

「いいえ。お礼を言って頂けるほどのことではありません」                       
拓人は初めて会った日の、詩音のたたずまいを思い出しながら答えた。
詩音は、ここの近くの顧客に資料を持って行った帰りだと言った。                      
「そうですか。僕も神宮前に所用があり、これから社に帰るところでした」             
ウェイトレスが、拓人のコーヒーを運んできた。

詩音は、テーブルの上のシュガーカップのふたを開けて、拓人の方に寄せてくれた。

「お使いになって?」

「はい。ありがとう」                  

拓人はシュガーカップから、スプーン一杯の砂糖を入れた。
そしてしばらくふたりは、表参道の秋景色に目をやった。

人通りは多く、車の往来も頻繁だった。
街路樹には、まだところどころ葉が残っていた。                 

拓人は本当のところ外の風景よりも、詩音が手にしていた本のことが気になっていた。
そんなに、厚手の本には見えなかったが・・・                          
その時、突然詩音が口をひらいた。     

「シュトルムです。」          

「シュトルム?」                     

拓人は不意をつかれた形になってしまったので、思わず詩音が口にした言葉を復唱してしまった。

「はい。先ほどまで、私が読んでいた本のことです」                       

詩音はコーヒーカップから口を離し、ソーサーに置くと、
そう答えた。       

「シュトルムとは、もしかすると『みずうみ』ですか?」

拓人も、口にしていたコーヒーカップを置きながら詩音に聞いた。

「はい。『みずうみ』です」       

「そうでしたか。僕も高校生の頃、いちど読みました。ほんとうは少し、
気になっていたのです」

「気になっていたとは、私の読んでいた本のことでしょうか?」                
「そうです。あなたが読んでいた本のことです」

拓人がそう答えると詩音は「そうだったのか」という表情をしてから、少し間をおいて恥ずかしがるように視線を拓人からはずした。                    

「ドイツの、人知れぬ静かな湖や森の様子が描かれています」

詩音は、膝に置かれた自分の指先を見ながらそう言った。

その言葉には、先ほど見せた恥じらいの心境から自分自身を解放させたい、
そんな意図があるように拓人には感じられた。

ふたりはほんの少しの時間、あえて互いに時間を置いた。
するとちょうどその時、秋の午後の陽射しが店の中に入り込み、間接的に詩音の顔の左側を照らした。

拓人はその瞬間、フェルメールのいくつかの作品を連想した。
フェルメールの描いた女性たちと、いま目の前にいる詩音とが、拓人の中で一瞬のうちに同化したのである。

そしてその午後の光は、詩音の内面の静謐さとともに、その心の奥底にあるなにか『宗教的』とも言えそうなものを、詩音の横顔から浮かび上がらせているようでもあった。


拓人はふたたびコーヒーを口にし、詩音も拓人に従った。

そのあとふたりは、物語の大筋を思い浮かべながら、互いの感想を少しずつ語り合った。
そして詩音は、この小説を初めて読んだのは中学一年生の時で、その後高校生の時にも数度読み返し、今が八回目だと言った。

拓人がその回数に驚きを見せると、詩音は小さく声を出して笑った。
そしてふたりは、いままでに自分たちが読んだ本について語り合った。
すると不思議なことに、多くの作家の作品について、拓人と詩音は過去に同じものを読んでいたことがわかったのである。

それらは三島や太宰、谷崎といった日本の作家だけではなく、ゲーテやヘッセ、ジッドやカフカにカミュ、ツルゲーネフにスタンダール、そしてシェークスピアといった海外の作家も多く含まれていた。                    

「私、あのようなところに行ってみたいと、ずっと思っていたのです」
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