ルードヴィヒの涙
詩音がまた話をもとに戻すように、視線を拓人に移して言った。
「イムメン湖、のことですか?静かで、誰もいないようなところ」
拓人はシュトルムの小説に出てくる湖の名をあげて、詩音に聞き返した。
「はい。そうかも知れません。静かで、誰もいないようなところ・・・」
詩音は拓人を見たまま微笑をうかべて、そしてつづけた。
「ラインハルトとエリーザベドがまだ幼かった頃、ピクニックでイチゴを探しにふたりで森の中へ入って行ったことがありましたでしょう?憶えていらっしゃいますこと?」
「はい、おぼろげですが。確かにそのような場面があったことを記憶しています」
拓人はたどるようにあらすじを整理しながら、詩音の問いかけに答えた。
「あのとき、エリーザベドはラインハルトの手をにぎって『こわい』と言いました。そして結局、イチゴは見つからなかったのです」
「そうでしたね。とうとう見つからなかった」
「私、この小説をはじめて読んだ時から、ずっと『あの森』や『あのみずうみ』に行ってみたいと想い続けてきました」
詩音は、自分の指先と拓人とを交互に見ながらそう言った。
そう話した詩音の瞳はどこか夢見心地のようでもあり、小説の中の出来事と現実の自分とを同化しているように拓人には感じられた。
そしてこの悲恋の物語が、詩音の心のなかに占めている位置や意味合いというものを考えてみたが、とても短い時間では答えのでるものではなかった。
拓人がふと時計を見ると、すでにこの店に入ってから、小一時間ほどが経っていた。
「僕は、そろそろ社に戻らなくてはなりません」
拓人は勝手を申し訳なく思う気持ちと、もしかすると詩音も時間を気にしているのではないか、という気遣いから詩音にそう言った。
「はい。私も一緒に出ます。それに、もう少しお話しをしていたくて」
詩音は、聞き取れるか聞き取れないかのような小さな声でつぶやくように拓人に答えた。
「そうですか。それでは一緒に店を出ましょう」
拓人はそう言うと、テーブルに置かれたシートを手に取り、レジに向かった。詩音も自分のバッグとカーディガンを手にすると、拓人のあとについてきた。
拓人がレシートを受け取って店から出ると、先ほどよりは気温が下がっていた。少し肌寒いかな、というくらいであった。
詩音は店の前で
「よろしいのでしょうか?」
と、拓人に聞いた。たぶん支払いのことを指しているのかな?
と拓人は思った。
「はい。大丈夫です。気にしないでください」
「ごちそうして下さって、ありがとうございました」
詩音は丁寧に頭を下げ、礼を述べた。
「僕は表参道の駅から銀座線に乗るつもりですが」
拓人は持っていた営業用のバッグを右手に持ち替えながら、詩音に言った。
「私も千代田線に乗りますので、ご一緒です」
「そうですか。それでは駅まで少し歩きましょう」
拓人が体を寄せて人ごみから詩音をかばう様にすると、詩音はこっくりとうなずいた。
そうしてふたりは、やや風の冷たくなった表参道を、肩を並べるようにして青山通りに向かって歩いて行った。
あまり幅の広くない舗道を、行き交う人たちとぶつからないように並んで歩くことは、ことのほか気を遣った。
やがてふたりが歩き始めてから間もなく、詩音が拓人に話しかけてきた。
「私、さきほどは嘘を申し上げてしまいました」
拓人が詩音を見ると、詩音は数メートル先の足元を見ているようであった。拓人は急な言葉に一瞬戸惑いを覚えた。
何を、どう問い返して良いものかわからなかったのである。
すると詩音はつづけて言った。
「新しいカクテルグラスを持ってきてくださったこと、と答えましたが・・・」
「はい。たしかにそのように聞きました」
拓人はつい先ほどの、カフェでの詩音との会話を思い出しながら答えた。
「あれは決して嘘ではありませんが、本心でもありませんでした」
拓人は返事をすることなく、詩音の次の言葉を待った。
「もういちど、私のところに戻ってきてくださったことが、うれしかったのです。そのことに、お礼を申し上げたかったのです」
詩音はそう言うと「ふっ」と息を吐いて、心の中からつかえがとれた、と言うような仕草をした。
一見、たいした違いはなさそうであるが、本質はまるで異なる心のあり様を内視し言葉に出来る詩音に、拓人は心を動かされた。
枯葉が舞い散る駅までの途中、拓人と詩音にすれ違う人たちが、男女を問わず皆が詩音のことを振り返って見ていることに、拓人は気がついていた。
「やはり、それほどに詩音は美しいのだ」
そしてこのように、まったく目立たぬように生きている詩音が、
なにかとても特別な存在のように思えて来て、拓人は不思議な気持ちになった。
やがてふたりは人通りの多い舗道を、肩を寄せて歩きながら、
地下鉄の駅へと続く階段を下りて行った。
「イムメン湖、のことですか?静かで、誰もいないようなところ」
拓人はシュトルムの小説に出てくる湖の名をあげて、詩音に聞き返した。
「はい。そうかも知れません。静かで、誰もいないようなところ・・・」
詩音は拓人を見たまま微笑をうかべて、そしてつづけた。
「ラインハルトとエリーザベドがまだ幼かった頃、ピクニックでイチゴを探しにふたりで森の中へ入って行ったことがありましたでしょう?憶えていらっしゃいますこと?」
「はい、おぼろげですが。確かにそのような場面があったことを記憶しています」
拓人はたどるようにあらすじを整理しながら、詩音の問いかけに答えた。
「あのとき、エリーザベドはラインハルトの手をにぎって『こわい』と言いました。そして結局、イチゴは見つからなかったのです」
「そうでしたね。とうとう見つからなかった」
「私、この小説をはじめて読んだ時から、ずっと『あの森』や『あのみずうみ』に行ってみたいと想い続けてきました」
詩音は、自分の指先と拓人とを交互に見ながらそう言った。
そう話した詩音の瞳はどこか夢見心地のようでもあり、小説の中の出来事と現実の自分とを同化しているように拓人には感じられた。
そしてこの悲恋の物語が、詩音の心のなかに占めている位置や意味合いというものを考えてみたが、とても短い時間では答えのでるものではなかった。
拓人がふと時計を見ると、すでにこの店に入ってから、小一時間ほどが経っていた。
「僕は、そろそろ社に戻らなくてはなりません」
拓人は勝手を申し訳なく思う気持ちと、もしかすると詩音も時間を気にしているのではないか、という気遣いから詩音にそう言った。
「はい。私も一緒に出ます。それに、もう少しお話しをしていたくて」
詩音は、聞き取れるか聞き取れないかのような小さな声でつぶやくように拓人に答えた。
「そうですか。それでは一緒に店を出ましょう」
拓人はそう言うと、テーブルに置かれたシートを手に取り、レジに向かった。詩音も自分のバッグとカーディガンを手にすると、拓人のあとについてきた。
拓人がレシートを受け取って店から出ると、先ほどよりは気温が下がっていた。少し肌寒いかな、というくらいであった。
詩音は店の前で
「よろしいのでしょうか?」
と、拓人に聞いた。たぶん支払いのことを指しているのかな?
と拓人は思った。
「はい。大丈夫です。気にしないでください」
「ごちそうして下さって、ありがとうございました」
詩音は丁寧に頭を下げ、礼を述べた。
「僕は表参道の駅から銀座線に乗るつもりですが」
拓人は持っていた営業用のバッグを右手に持ち替えながら、詩音に言った。
「私も千代田線に乗りますので、ご一緒です」
「そうですか。それでは駅まで少し歩きましょう」
拓人が体を寄せて人ごみから詩音をかばう様にすると、詩音はこっくりとうなずいた。
そうしてふたりは、やや風の冷たくなった表参道を、肩を並べるようにして青山通りに向かって歩いて行った。
あまり幅の広くない舗道を、行き交う人たちとぶつからないように並んで歩くことは、ことのほか気を遣った。
やがてふたりが歩き始めてから間もなく、詩音が拓人に話しかけてきた。
「私、さきほどは嘘を申し上げてしまいました」
拓人が詩音を見ると、詩音は数メートル先の足元を見ているようであった。拓人は急な言葉に一瞬戸惑いを覚えた。
何を、どう問い返して良いものかわからなかったのである。
すると詩音はつづけて言った。
「新しいカクテルグラスを持ってきてくださったこと、と答えましたが・・・」
「はい。たしかにそのように聞きました」
拓人はつい先ほどの、カフェでの詩音との会話を思い出しながら答えた。
「あれは決して嘘ではありませんが、本心でもありませんでした」
拓人は返事をすることなく、詩音の次の言葉を待った。
「もういちど、私のところに戻ってきてくださったことが、うれしかったのです。そのことに、お礼を申し上げたかったのです」
詩音はそう言うと「ふっ」と息を吐いて、心の中からつかえがとれた、と言うような仕草をした。
一見、たいした違いはなさそうであるが、本質はまるで異なる心のあり様を内視し言葉に出来る詩音に、拓人は心を動かされた。
枯葉が舞い散る駅までの途中、拓人と詩音にすれ違う人たちが、男女を問わず皆が詩音のことを振り返って見ていることに、拓人は気がついていた。
「やはり、それほどに詩音は美しいのだ」
そしてこのように、まったく目立たぬように生きている詩音が、
なにかとても特別な存在のように思えて来て、拓人は不思議な気持ちになった。
やがてふたりは人通りの多い舗道を、肩を寄せて歩きながら、
地下鉄の駅へと続く階段を下りて行った。