ルードヴィヒの涙
第6章 ハイデルベルグ
拓人は東京を離れる時、ホテルの手配はせず航空機のチケットのみを用意した。
時間の余裕も少なく面倒であったことも理由のひとつだが、何より、今の彼の心の内がそのようにさせたのである。
ただ、一日目だけは万一の用心の為、予めホテルをおさえてあった。
成田を出発してからすでに十四時間余りが経っていた。
拓人の腕時計は、あくる日の午前二時過ぎを指していた。
彼は途中のヘルシンキで、時差を調節することはしなかった。
今、ドイツとの時差は七時間あるので、拓人は自分の時計を七時間前に戻した。
ヨーロッパは日本を午前中に出発すると、大概の都市には現地の夕食時くらいには到着するのである。
拓人はフランクフルト空港で荷物を受け取ると、急いでタクシーを拾い、予約を入れてあったハイデルベルグのホテルに向かった。
そして素早くチェックインを済ませると、部屋のダブルベッドに体を横たえた。
外は陽の長いヨーロッパではあったが、さすがにもう暗闇に包まれていた。やや空腹は感じていたが、ドイツの冷たく乾いた空気に包まれながら、拓人は心地よい眠りに落ちて行こうとする自分を視ていた。彼はそれに、抗おうとはしなかった。
翌朝目が覚めると、外は爽やかに晴れていた。
拓人が予約を入れておいたホテルは部屋こそ違え、七年前に詩音と泊まったホテルと同じであった。
大手ホテルチェーンが経営する、アメリカンスタイルのホテルである。昨晩は時差の関係でかなりの時間、睡眠を摂ることが出来た。
拓人は軽めの朝食をひとりですませると、七年前に詩音と最初に訪れた名所である、ハイデルベルグ城へと向かった。
今や廃墟と化してしまったその城は、ホテルからはさほど遠くはなく徒歩で向えた。かつてはプファルツ選帝侯の居城であり、その規模と風格は朽ち果てた今でも、充分に訪れる者を威容した。
遠くから見れば、赤色に浮かび上がる巨大な建造物であった。
拓人はひんやりとする城跡に入った。するとホテルを出た時はあまり気にはならなかったのであるが、寒さが急に身に染みるようになった。
吐く息は白くなり、暖かくなりかけの東京とは明らかに異なった。
拓人は念のためセーターを着てきたのだが、それでも寒さはこたえて、革のコートの前を合わせながらとぼとぼと歩きはじめた。
遠い昔に、いったいどのような攻撃を受けてこのようになったのであろうか、天井は崩れ落ち、壁もほとんどが吹き飛ばされている、そんな荒れ果てた城であった。
しかし洋の東西を問わず、朽ち果ててしまった城と言うものは、見るものにこの世の儚さを伝えた。
拓人が、この城がかつて誇ったであろう栄華を心に思い浮かべてみると、そこにはなお一層の侘しさが感じられた。
彼は城内の大きな石に暫しのあいだ腰掛けて周りの人たちをながめたあと、人だかりのある方に向かった。
ハイデルベルグ城はネッカー河の河畔の高台にあるため、城まで登り河畔側に立つと、ハイデルベルグの街が一望できた。人だかりはそこにあった。
七年前詩音と訪れた時も、今日の様な晴天であった。
拓人は眼下に広がる中世の面影を残した街並みを遠方まで見渡しながら、昨夜の事を思い返していた。
確かに昨晩は部屋に入ったあとすぐにベッドに大の字になり、
そのまま眠りについた筈であったが・・・
拓人には夢とも現実ともつかぬ、詩音と出逢ったころの追憶が浮かんでは消え、掴もうとすれば逃げて行った記憶が残っていた。
それは、どこまで行っても不確かな映像であった。