ルードヴィヒの涙
 
 拓人が詩音と「偶然」の再会をした日、ふたりはカフェを出て表参道の駅まで
一緒に歩いた。

拓人は銀座線に、詩音は千代田線に乗るためである。駅の構内で詩音と別れる際、拓人は詩音を美術館に誘った。 

「次の日曜日、もし良かったらシャガールを観に行きませんか?」                 
都内の、ある美術館ではシャガールの展覧会が催されており、拓人はそこを訪ねるつもりでいたのである。        

絵画はひとりで観る、それが拓人のいつものことであった。
絵ときちんと対峙するためには、時間と空間を自分ひとりで構築しなければならなかった。
そのためには他人は『不要』だったのである。    

しかし詩音の、このたたずまいは何であろうか?

今しがた通りのカフェで、拓人の真向かいの椅子に座っていた詩音、そして十日ほど前の、
初めて会った日の立ち姿を思い起こして、拓人は決して自分からは訴えようとはしない詩音の奥ゆかしい美しさに惹かれていた。

そしてそこに何かとても繊細な、手に包むように大切にしなければ、すぐにでも壊れてしまうガラス細工のようなかよわさも感じたのであった。

「詩音となら、一緒に絵を観ることが出来るであろう」

拓人はそう思ったのであった。

「私で、よろしいのでしょうか?ご一緒するのは?」

「はい。もちろんです」

詩音は拓人の誘いに、一瞬びっくりとしたような表情を見せたが、拓人がそう答えるとにっこりと笑い、ふたりで美術館に行くことを約束してくれた。

そして拓人と詩音は、当日の待ち合わせ時間と場所を決めて、それぞれの改札へと歩いて行ったのであった。 

 数日後の日曜日に、拓人と詩音が訪ねた美術館は、都内JR線のターミナル駅からほど近いところにあった。
いくつかある改札のうちのひとつから出て、木々に囲まれた大きな公園の一角にその美術館はあった。

拓人と詩音は、そのターミナル駅に乗り入れる地下鉄の改札口で待ち合わせをしたのだった。            

当日は約束の時間より十分も早く着いた拓人であったが、
改札を出るともう詩音は先に着いていた。

「すみません。お待たせしてしまって」  

拓人は会うなり非礼をわびた。

「いいえ。私もいま着いたばかりです。お気になさらないでください」

詩音はそう言うと
「美術館はどちらでしょうか?」
と、拓人に聞いた。

拓人は
「そうですね。では、こちらから行きましょう」
と左側の出口を指さして、詩音を導くように歩きはじめた。                      
 
 その日は、ここ数日の曇天が噓のように晴れあがり、夏の終わりをも思わせるような暑い日であった。
ふたりは気持ちのよさそうな木陰を横目に見ながら、美術館までの道を歩いた。

そのあいだ詩音は、昨夜は『なにかどきどきと緊張して』なかなか寝つけなかったこと、自分は美術館で絵を観るなど初めてであること、そして、シャガールについて多少『勉強』して来たこと、などを拓人に話した。

それは、拓人が抱いていた『無口な詩音』とはまったく印象が異なるほどであった。

「中町さんは、よく絵をご覧になりに行かれるのですか?」

詩音は美術館の入り口付近に着き、チケット売り場の列に並んでいる時、拓人にそう聞いた。

「好きな画家、あるいは興味のある画家の絵が来たときは、ほとんど、必ずと言ってよいほど観に行きます」

拓人はそう答え、自分の横に並んでいる詩音を見た。詩音の髪は、夏の名残を持った風に、
かすかに揺れていた。           

 その日はシャガールを観た帰り、ふたりで日比谷に出た。

まだ日暮れまでにはかなりの時間があり、日中の暑さが充分に残っていた。
ビルディングの群れと皇居に囲まれたそこは、木々と木陰が気持ち良かった。
ふたりはしばらく公園の中を散策し、噴水の前で立ち止まった。

やわらかに水しぶきが舞い上がり、拓人と詩音にかかった。詩音は小さく声を上げた。          
そして詩音の半袖のブラウスから伸びた白い腕は、拓人には眩しかった。
しかしそれは拓人に肉欲的な欲望を導き出す性質のものとは明らかに違っていた。

美術館での詩音は、まるですい込まれたかのように絵に見入っていた。
拓人も絵を観る時はその作品の中に入ってしまうくらいに我を忘れるのであったが、
詩音はまさしくそれか、それ以上であった。

そしてときおり詩音は大きく息を吐くようにし、
「きれいね」
と言って、拓人のことをすがるような瞳で見つめた。

 途中、美術館の一階から二階に通ずる階段の壁に、今回展示された絵の中では最も大きな作品が架けられてあった。

詩音は階段の踊り場で立ち止まり、しばらくその絵の前に佇んだ。それはかなりの長い時間であった。

そしてこんどは二階の手摺りのあたりに移動し、またそこで無言のままその絵を観ていた。     
そのようにして彼女はおよそ二時間以上もかけて、ゆっくりとすべての作品を観てまわったのだった。

パンフレットを手にして美術館を出ると、詩音はため息をつくように
「ほんとうに、素晴らしかったわ」
と言って、拓人に礼の気持ちを伝えた。            


 七年ぶりに訪れたハイデルベルグ城から見る景色は、まさしく絵葉書のようだった。

ネッカー河に架かる「古い橋」の橋門の美しさ、緑ゆたかな山の稜線と蒼い空、河畔の青々とした芝の色、そして赤色の屋根がどこまでも続く中世の街並み、すべてが七年前と同じであった。

詩音もここからの景色を、城壁の端に手を掛けながらしばらく眺めつづけていた。

「きれいね。素敵だわ」

詩音は拓人の手を取って、城内のあちこちに彼を連れまわった。

「詩音こそ、どのような素晴らしい景色よりも美しくて輝いていた」

拓人は七年前の、そんなことを思い出していた。


 「さっきの絵・・・」          

公園の中の、木の陰になっているベンチを見つけた拓人と詩音は、そこに腰掛けて噴水の周りで戯れる子供たちを見ていた。
陽の光はやや勢いを失いつつあった。

そのとき詩音は、ほんの小さく口をひらいた。        

「あんなに美しい絵を、私ははじめて観たの」            

詩音は、かほそい声でつぶやくように言った。                  

「さっきの、階段に架けられていた絵のこと?」

拓人が聞くと、詩音は
「そうよ」
とうなずいた。

「彼は、心から彼女を愛していたのね。そして、彼女も。それが、あの絵を通じて私に伝わってきたの。他人(ひと)の、愛し合う心と心がこちらに伝わるなんて、ほんとうにすばらしいわ」

詩音はそう拓人に言った。

拓人は知識として、シャガールと最初の妻ベラの深い愛情を識っていた。そして夫人ベラがシャガールを残して病死していること、
彼がベラの死後も彼女をモデルにして、多くの作品を描き、ベラを愛し続けたことも。

 「彼女は画家に愛されて、永遠の愛を手に入れたのね。私には、それがわかったの。そしてきっとそれは、
この世での生死とは無関係なことなのだわ」

 あのとき、たしかに詩音はそう言ったような気がした。
それは、誰にともなく発せられたようにも思えた。とても小さく、囁くような言葉だった。

 「あのとき、あの言葉は『誰』に言ったのだろうか?」
                              

詩音はよく、話しかけているとも独り言ともつかぬ話し方をすることがあった。やがて多くの時間をともに過ごす様になり、拓人にも少しずつ慣れが身について来たのだが、つき合い始めた頃は返事をするべきなのか、あるいは聞き流すべきなのか、判断に迷うことがしばしばあったのである。


拓人はハイデルベルグ城から下り、アルテ・ブリュック(古い橋)を渡ってネッカー河の対岸へと向かうことにした。

そこは「哲学の道」へと繋がっており、拓人はそのままそちらに向かい歩を進めた。
そしてもういちど、その緑豊かな山の小路を歩きながら、
あのときの詩音の言葉を思い浮かべた。

『この世での生死とは無関係なこと』

その言葉が拓人の心の中を、リフレインのように駈け巡っていた。
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