ルードヴィヒの涙
第7章 ローテンブルグ

遠くから見ると、その街は丘の上にぽっかりと浮かんでいる様に見える。街は城壁で囲われており、幾つかある城門からしか中には入ることが出来ない。

中世がそのまま残っている、と言っても過言ではないのである。  

 ローテンブルグ・オプ・デア・タウバー  

世界中の多くの人たちを魅了するロマンチック街道の都市の中でも、「中世の宝石」と呼ばれ最も人気のある街である。      
 
拓人は昨日の午後を、ハイデルベルグ城から「古い橋」を渡り、その後、ゆっくりと哲学の道をひとり歩くことに費やした。

そして夕刻まで街のあちらこちらを散策し、ホテルの部屋に戻ったのは七時を回っていた。
夕食はホテルのダイニングで摂った。
 
彼は昨日、ホテルでの夕食のさなか、ふと美里のことを思い出した。

ダイニングからは外の通りを眺めることができたので、ヨーロッパの古い街並みを堪能することも可能だったのだが、実際に異国の街にひとりでいると、いまの自分の孤独さが余計に身に沁みるようであり、何かとても辛い気分に落ち込んでしまったのであった。

そんなこともあり、きっと人恋しくなったのであろう、拓人はそう自己の内面を推察した。

 美里には
「急な出張になった。しばらく連絡は出来ないかも知れない」
そう言い残し、東京を発ってきた。

美里とは出会って一年近くが過ぎようとしていた。世間的に見れば交際をしている、ということになるのかも知れなかった。

拓人は彼女に好意を持っていたし、美里も自分を嫌ってはいないはず、いや、むしろ多少なりとも好意に近い感情を抱いてくれているはず、と拓人は感じていた。

しかしどうしても「詩音のこと」が拓人の中で壁となり、美里に対して大きく踏み出すことが出来なかったのであった。

美里は詩音と同様に、きわめて容姿に恵まれていた。
しかし美里のそれは、詩音のそれとは明らかに性質が異なっていた。

しかし、いったいどのように違っているのか、は拓人にもうまく説明することが出来なかった。

「自分の心は今、どのようになっているのであろうか?」

拓人には、それを凝視できる情態にはなかった。   


 今朝九時にハイデルベルグのホテルをチェックアウトし、ここローテンブルグに先ほど着いた拓人は、七年前に詩音とふたりで登った、市庁舎の塔へと歩を向けた。            
そこはやはり結構な人気で、多少の行列になっていた。

最後は、相当に狭く急になる塔内の階段を登り切ると、そこからは丘陵地帯を360度見渡すことが出来る絶景に出会えるはずであった。


七年前詩音は、この市庁舎の塔をマルクト広場から見上げ、
「あそこに登ってみたい」
と、拓人の手を引くように広場を横切り駈け上がって行ったのであったが・・・  


 拓人と詩音は、原宿のカフェでの再会以来ほとんど毎週、週末にはふたりで逢うようになっていた。

都内の美術館にも出かけたし、図書館にもよく通った。美術館にはシャガールを観たのち、フェルメールやレンブラント、モネやロートレックなどを観に行った。

それは詩音の希望を汲んだものであったし、また図書館での過ごし方と言えば、詩音はほとんど海外の小説を読み、拓人は主に絵画や芸術、建築関係の厚めの本をめくっていた。

ともに隣り合わせに座っていても、読む本はまったく別物だったのである。

そしてその間、ふたりはほとんど、まったくと言って良いほど無口になり言葉を交わすことはなかったが、それでも時間が辛くなることは有り得なかった。

沈黙さえもが、ふたりには心地よかった。

そして数時間をそこで過ごし、図書館を出たあとふたりはカフェでその日に読んだ本の感想を互いに語り合った。

それはふたりにとって、多くの意味で有意義な時間だった。
また時には、何の目的もなく街をぶらつくこともあったし、拓人の家の近くの公園で、
特に何もせず、一日中鳩に餌をやりながら過ごすことも珍しくはなかった。

そんな時は拓人がいつも持っているプレーヤーで、ふたりで音楽を聴いた。

それはクラシックばかりではなく、ロックからジャズ、ポップスまで幅が広かった。

詩音はクラシック以外の音楽はほとんど聴いたことが無かったので、拓人が聴かせる「新しい音楽」に、とても興味を持った。

そしてひとつのヘッドフォンのLを拓人が、Rを詩音が耳に入れて分け合って聴くことが、ふたりにとってお互いを肌で感じ、心をつなげる鎖のようなものになっていた。

拓人と詩音はそんなふうにしながら、少しずつ相手を理解しあって行った。

それは色鮮やかなタペストリーが、時間と手間を充分に掛けられながら少しずつ編み込まれていくことと、とても似ていた。

ふたりは決して先を急ぐことなく、ゆっくりとその「共同作品」を紡ぎ出して行ったのであった。   



 拓人と詩音がふたりきりで頻繁に逢うようになり、半年が過ぎようとしたころ、
ふたりは横浜に出かけた。

その日は、外国人墓地の周辺をしばらく歩き、いくつかある洋館を見学した。そこにはバラがきれいに咲いていた。

詩音がとてもバラが好きである、ということを拓人はその時にはじめて知ったのである。
ある洋館ではカフェもあり、ふたりはそのなかのひとつでローズティーを飲みながら時間を過ごした。

拓人はその日、何枚も詩音の写真を撮った。
詩音が異国情緒あふれる異人館の庭先で花々と戯れる姿は、そこに咲くバラなどよりもはるかに美しい、と拓人は思った。

そして近くにあった売店でソフトクリームを求め、外国人墓地を背にしてそれを食べている
時であった。             

「お付き合いをしている方がいるのなら、お家にご招待したら、と父と母が言っているの」
と、拓人は詩音から聞かされた。

陽はすでに高いところにあり、その時期としては十分すぎるほどの暖かさであった。           

拓人は詩音とかわるがわる舐めていたソフトクリームの、コーンの部分を、音を立てて口の中に押し込み、
「そうなんだ」             
と、ひとことだけ答えた。        


 拓人にとっては思いもよらなかった「詩音の宣言」のあと、ふたりは外国人墓地周辺からカトリック山手教会へとまわり、そして港の見える丘公園に戻り、そのあと山下公園へと下りて行った。

そこでふたりはしばらく、鎖に繋がれた往年の名船を見ながら過ごし、涼しい風が吹き始めた夕方ころに、マリンタワーからさほど遠くないイタリアンレストランに入った。              
そして拓人と詩音は、イタリア出身の有名なタレントに似たウェイターに奨められたパスタを食べながら、詩音の家に行く日を打ち合わせることにした。

 「ずいぶんとたくさん歩いたわ。あなた、お疲れにならなくて?」

詩音はすっかり歩き疲れたことがさも楽しそうに、拓人に聞いた。           
詩音は、拓人を苗字でも名前でも呼ばずに、「あなた」と呼んでいた。

それはふたりでシャガールを観に行った日から、そんなに間の空いていない頃のことだった。

詩音は拓人に
「これからどのようにお呼びすればよろしいでしょうか?」
と尋ねた。考えてもいなかった質問だったので、
「どのようにでも」
と、拓人は答えた。

それ以外に答えようが無かったのである。すると詩音は
「それでは『あなた』とお呼びしてもよろしいでしょうか?苗字ではなにか・・・」
と言って、そのまま視線を自分の手元のハンカチに落とした。

「僕はそれでもかまわないよ。君の呼びたいようで」

拓人はそのように答え、それ以来詩音は拓人を「あなた」と呼ぶようになっていた。

 「海が素敵だったわ。私、海を見たのはいつ以来だったでしょか。自分でも、忘れてしまっているくらいよ」

詩音は港の見える丘公園からの景色も、山下公園から見た景色も、とても気に入ったようであった。

「海と言っても、ほんのわずかしか見えないとても小さな海、だったけどね」

拓人は笑いながらそう答えた。

そして
「君は、バラが好きだったんだね」
と、洋館での詩音の姿を思い出しながら話題をかえて彼女に聞いた。

「ええ、そうよ。私がまだ幼いころ、家の庭にはバラがあったの。真紅の、ほんとうに真っ赤なバラだった。私はそれがとても好きだったの」

詩音は、最初は「きょとん」とした表情を見せたが、すぐにそう答えた。

「それで、そのバラは今もあるの?」

「私が小学校に上がって数年後に、病気で枯れてしまったの」

詩音は幼い日の、哀しい出来事を思い出すように言った。

「そうだったのか。じゃあ今度、ふたりでバラを育ててみようか?」

「そうね。あなたと一緒になら。あなたのお部屋のベランダではどうかしら?陽当たりも良いし、きっときれいに咲いてくれるはずよ」

その日の詩音は、最後までとても楽しそうであった。

ふたりはレストランでシチリア産のワインを飲み、パスタを食べ、そして詩音の両親に会う日を決めた。

そしてその日、拓人は途中まで詩音を送り、ふたりはそれぞれの家路についた。
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