どうぞ、ここで恋に落ちて
私は今日一日で樋泉さんのことをどうしようもなく好きにってしまったけど、同時に彼の好きな人がすずか先生だってことにも気がついた。
だから今日が終わったらもう一度、ただの平凡な書店員として、営業にやって来る彼にひっそりと憧れる関係に戻るんだ。
そう言い聞かせていないと、胸を焦がすほどに膨らんだ想いが喉を突き破るように溢れ出て、ささやかなその関係さえ壊してしまう。
「……ああ、うん。じゃあ、また今度」
私はもうまともに目を合わせることもできなくて、まだ少し混乱したような樋泉さんの声を最後に、背を向けて歩き出す。
しばらくは私を見送る樋泉さんの視線を感じていたけど、やがて彼も反対方向へ踏み出す足音が聞こえてきた。
夕日の色に染められた地面が歪んでいく。
頬を伝い落ちたいくつものしずくがコンクリートを濡らし、私の儚い片思いをかき消すように余韻も残さず夏の空気が乾かした。
「ふっ……ぇ……」
それでも次々にこみ上げる涙が情けなくてイヤになる。
あーあ、どうしよう。
とりあえず駅のある方向に向かってるけど、こんなんで電車乗れるのかな。
ここまで歩いて来れたんだし、アパートまでとぼとぼ歩いて帰ろうかな。
隣に樋泉さんがいてくれなきゃ楽しくもないし、ただ遠いだけだけど。