どうぞ、ここで恋に落ちて
ああ、これは樋泉さんの声だ。
鼓膜を震わせる声の主を脳が判別するよりずっと速く、彼の呼吸や香りや肩に触れる手のひらが私の五感に働きかけ、気付いたときには心臓がバクバクと音を鳴らしていた。
「あ、ああ……そうだったかもしれない」
白髪混じりのおじさまは突然現れたスーパーヒーローに目を瞬きながらもこくりと頷く。
「高坂さん」
ぶつけた鼻頭を押さえながら顔を上げると、樋泉さんが耳元で低く囁いた。
「たぶん、『火の中の薔薇』っていう小説じゃないかな。古いものだしあまり有名じゃないけど、置いてありそう?」
具体的な題名を提示されれば、私の頭の中にはピコンと心当たりのある一冊が浮かぶ。
「あ、それならたしか、文庫の棚に……」
文庫の棚の推理小説のコーナーへ行ってみると目当ての本はあっさりと見つかり、表紙とあらすじを確認してもらうと、確かに彼の探していた本だということだった。
「どうもありがとう、とても助かった。次は題名も憶えてくるよ」
お会計を済ませた彼は小さく笑ってそう声をかけてくれたけれど、本当にお礼を言われるべきなのは私じゃないってことは、私がいちばんわかってる。
私はまた、スーパーヒーローに救われてしまった。