どうぞ、ここで恋に落ちて
お、怒ってるのは呼び方に対してなの?
私は拍子抜けしながら謝る。
そういえば、樋泉さんも彼女が嫌がるから"千春子さん"と呼んでると言ってたっけ。
「執筆を始めたときは、こんなに長く続けるとは思ってなかったの。改名したいって言っても、編集部は許してくれないし」
すずか先生ーーもとい、千春子さんは言い訳をする子どものように言って、鼻の頭にシワを寄せる。
それから突然スンと鼻を鳴らしたかと思うと、瞼の奥に潜む涙を溢れさせた。
「好きだったの、洋太くんのことが。彼が私を好きじゃないことはわかってたけど、名前を呼ばれる度に本当は飛び上がるほど嬉しかった」
グズグズと泣き出す千春子さんに、マスターが慣れた様子でサッとティッシュの箱を差し出す。
やっぱり彼女は、ずっとここで泣いていたのだろうか。
千春子さんは人目も憚らず、チーンと豪快に鼻をかんで続ける。
「実際彼女ができたって聞いたらすごくショックで、悔しくて……私の気持ちにはちっとも気付かない洋太くんに一度でいいから振り向いてほしくて、『今すぐ来てくれなきゃサイン会はしない』なんて言っちゃったの」
鼻を赤くした千春子さんにマスターがすかさず小さなゴミ箱を差し出し、彼女はその中にティッシュを放り込む。