どうぞ、ここで恋に落ちて
ほわほわと覚束ない足取りでアパートの階段を上り、一期書店に就職してからひとり暮らしをしている部屋のドアを目指す。
「えっ」
ふと顔を上げると、部屋の前にチャコールグレーのスーツを着た男の人がいるのに気付き、心臓が跳ねた。
微かな酔いも吹っ飛ぶ。
背の高いその人は、所在なさげに肩を丸め、柔らかい黒髪に片手を突っ込んで焦れたようにグシャグシャと乱す。
そうかと思えば次の瞬間には背筋をシャンと伸ばし、細身のブロウフレームのメガネを押し上げて深呼吸をする。
ようやく落ち着いたのかと思ったのに、腕時計でチラリと時間を確認すると、今度は居ても立っても居られないというようにこちらへ向かって歩き出した。
もどかし気にメガネを外し、スーツの内ポケットに突っ込む。
眉間にシワを寄せた素顔の彼が顔を上げ、私と目が合うと勢いよく走り出した。
「古都!」
「ひ、樋泉さん?」
樋泉さんは面喰らう私に駆け寄ると、私の腕を掴んで慌てて顔を覗き込む。
「ひとりなの? 大丈夫? あの、俺が勝手に会いに来たんだけど、でもなかなか帰らないから、心配で」
「大丈夫です、えっと、タクシーで帰ってきたので、とくに危ないことは……」
険しい表情の樋泉さんに気圧されて、私はこくこくと頷いた。