どうぞ、ここで恋に落ちて
そうは言っても、本来はこちらの方が素顔の樋泉さんなのかもしれない。
メガネの優しい樋泉さんは"営業用"で、当然私はそんな彼しか知らなかったけど、本当は無口でドSな大人の俺様で、触れればこの身を焼き焦がすほど危なげな恋に落ちてしまう……。
って、そんなわけないか。
妄想の中で勝手に彼を二重人格の俺様に仕立て上げるのはやめよう。
そんなふう頭の中でぐるぐると考え事をして、ずっと触れている樋泉さんの手のひらを意識しないように努めた。
彼がすれ違う人とぶつからないようにゆっくりと慎重に進み、いつもは渡ってしまう点滅信号も数歩なら引き返す。
だけど黙って手をつないで歩いていると、そのことが余計に意識されていつまで経ってもドキドキが止まらない。
結局私は緊張と恥ずかしさで世間話のひとつもすることができなくて、ついにひとことも言葉を交わさないまま春町駅へ着いてしまった。
沈黙を破るきっかけが掴めず、樋泉さんの手を引いて人の行き交う駅の中を進む。
えっと……どこの改札に向かえばいいんだろう。
私は樋泉さんの家がどの辺りなのか全く知らないし、そもそも春町駅を利用しているということもついさっき知った。
ここからどこへ行けばいいかわからなくて、人の波の中で立ち止まる。
「あの……」
さすがに黙っているのも限界だと自分に言い聞かせ、少し後ろにいる樋泉さんを振り返った。