どうぞ、ここで恋に落ちて
彼は私たちに気がつくと、手に持っていた本から顔を上げてぺこりと会釈をする。
彼の姿を見るのは久しぶりな気がして嬉しくなり、私は小さく声を弾ませて頬を緩めた。
「こんにちは、橘くん」
橘くんは有名な進学校に通う眉目秀麗でクールな高校生だ。
以前は頻繁にお店に来てくれたけど、2年生になってからは勉強が忙しくてあまりゆっくり読書をする時間がないと言っていた。
とは言えかなりの読書家である橘くんのことだから、今でも普通の高校生よりはたくさん本を読んでいるはず。
彼は古典作品全般を好み、初めておもしろいと思ったお話は小学生の頃に読んだ『古事記』だったらしい。
よく一期書店を利用してくれる者同士顔見知りなのか、私の隣で色葉ちゃんも小さく頭を下げる。
「おもしろそうですね、これ。こんな作品があるなんて知らなかった」
切れ長の瞳を手の中の文庫本に向けて、橘くんが静かに呟く。
それからもう一度軽く会釈をし、私たちの側を通り抜け、そのまま本を持ってレジへと向かって行った。
橘くん、今日はあの本を買ってくれるみたいだ。
それは偶然にも、私がこれから色葉ちゃんにオススメしようと思っていた本と同じものだった。