どうぞ、ここで恋に落ちて
「あの、樋泉さ……あっ!」
不思議に思って眉をグッと寄せたとき、ふと視線を感じてその元を探ると、ちょうど向かい側から歩いて来る男性と目が合った。
きっと彼も、この時間に春町駅へ向かうサラリーマンのうちのひとり。
目が合ったからには素通りするわけにもいかず、お互いぺこりと頭を下げて、なんとなく足を止めて向かい合う。
どうしたらいいんだろう。
この前のこともあるから、このまま軽くあいさつをして別れるってわけにもいかなそうだよね。
携帯を耳に当てたままフリーズする私の前に気まずそうに立つのは、あの夜以来姿を見せなかった乃木さんだ。
《高坂さん? どうかした?》
突然黙り込んだ私を心配するように、通話口から樋泉さんの声がもれる。
「あ、いえ、たまたま乃木さ……お店のお客様にお会いして」
《お客様?》
乃木さんは確かに会社帰りのようで、いつも一期書店へ寄ってくれたときのようにスーツを着ている。
だけど明るい茶色の髪は心なしか萎れているみたいで、今夜の乃木さんは雰囲気が暗い。
そんな彼はしばらく視線を彷徨わせたあと、躊躇いがちに口を開いた。