どうぞ、ここで恋に落ちて
「乃木さん?」
私が振り返ると、彼は少しずつ後退し、半分逃げ腰になりながらも早口でまくしたてる。
「あの、この前は本当にごめん! 彼にも、そう言っておいて欲しいんだ。それじゃ、俺はこれで……また今度!」
彼がそう言い切ると同時に、道路の向こう側にいた樋泉さんが、わずかな車の切れ目に強引に渡って来た。
その間に乃木さんは私に背を向けて、ぴゅーんと走って去って行く。
乃木さん、もしかして、あのときのことを謝るために声をかけてくれたのかな……?
私が電話中なのを理由に素通りすることもできただろうに。
呆気に取られてなす術もなくその背中を見送っていると、道路を渡りきった樋泉さんが、少し息を乱しながら私の隣に立った。
「高坂さん、彼は何て……?」
気品のある顔立ちに心配そうな色を織り交ぜて、樋泉さんが私を見下ろしている。
電話越しに耳元で聞いていたときよりもずっと近く聞こえる彼の柔らかな声が、私の鼓膜を震わせた。
「この前のこと、樋泉さんにも本当にごめんなさいって。それから……『また今度』って、言ってくれました」