大人の恋はナチュラルがいい。

 その後、彼――太一くんは「お仕事の邪魔しちゃってすみません」と言ってから、少々冷めてしまったエスプレッソを一気に飲み干した。もっと味わって飲んで欲しかったが、きっとテンションが上がってるだろう彼の心中を察するとそれも仕方ない。

 そしてレジで会計を済ませると、立ち去る前に私に尋ねた。「お名前教えてもらってもいいですか?フルネームで」と。

「芹沢陽与子です」

 素直に答えると太一くんは「芹沢……ひよこさん」と口の中で反芻してから弾けるような笑顔を向ける。

「ヒヨコさんかぁ。可愛い、すごく似合ってますね」

 いやいや、イントネーションがおかしいよ太一くん。それじゃニワトリのお子さんみたいじゃないか。“よ”の部分は上がるんじゃなくて下がるんだよ。そうツッコミたかったけど、彼がふいに発した『可愛い』にまんまと心臓を打ち抜かれてしまった私は、赤い顔で「どうも」と笑い返すしか出来ない。いいや、いつか訂正しよう。

 そうして、わずか15分の滞在だったにも関わらず私の人生に大きな変革をもたらした太一くんは、いつもの爽やかさにはにかみをプラスした笑顔で帰って行った。

 彼の背中がドアを出て完全に見えなくなってからカウンターに戻れば、理緒ちゃんが待ってましたとばかりにエプロンを翻して私に寄って来る。含み笑いを浮かべる口元は、完全に得意げな勝者の顔だ。

「ほーら、だから言ったじゃないですか、賭けてもいいって。私の勘大当たり。それにしても、ふふふっ、あんなに照れちゃって。可愛いんだぁヒヨコ店長ってば」

 だから黄色い鳥っぽく呼ぶのやめれ。しかし、一部始終どころか全てを見ていた彼女の煽りに、私は返す言葉も無い。もう煮るなり焼くなり好きにしてくれ。そんな思いで苦々しい愛想笑いを浮かべるも理緒ちゃんは艶めくリップでさらに唇に弧を描き

「えへへ、オランジュタルトも頂きですねっ」

と清清しくブイサインを私に向けるのだった。


 こうしてオランジュタルトワンホール4800円を失った私は、代わりにおよそ5年ぶりのうれしはずかし“恋の予感”を手に入れたのであった。

 
< 10 / 57 >

この作品をシェア

pagetop