ストックホルム・シンドローム
…なんで、突然、沙奈は。
「…嘘だ。だって僕は…」
君を、誘拐したのに。
沙奈が唇を噛んだ。
僕は手の震えを止めるために、自分自身に必死に言い聞かせようとする。
落ち着け、ぼく。
きっと嘘だ。
けれど、もし、本当なら?
「…それでも、あなたを好きになった。
わたし、あなたの顔が見たい」
心臓が跳ね上がる。
沙奈の言葉を、僕は信じてもいいのだろうか。
沙奈は僕を…愛してくれるのだろうか。
頭の中が真っ白になっていく、そんな感覚が身体中を蝕んでいきそうになる。
長い沈黙。
コーヒーはきっと冷めただろう。
僕は、沙奈に向け、言う。
「…ストックホルム症候群って
知ってるかい?」
「え?」
昔、なにかの本で読んだ現象の名前が、
不意に頭の中に浮かんだ。
それが、沙奈を指しているように思えてしかたがなかった。
不思議そうな声を上げた沙奈。
「立てこもり事件の被害者や、誘拐事件の被害者のように。犯人と長く過ごすことによって、被害者に、犯人に対しての愛情のようなものが、湧くらしいんだ」
紡いでいく僕の声は、どこか弱々しい。