百万本の薔薇
(四)運命の女
「もういい、やめろ! 今夜はここまでだ。
これ以上ムリして、もっとひどくなったらどうするつもりだ。休養することも大事だぞ」
ギターをケースにしまい込みながら「ひさしぶりに一杯飲むか?」と、栄子に優しく声をかけた。
立ちすくんでいる栄子、返事を返さない。じっと床を見つめている。
ボタボタと落ちる汗を拭こうともせずに、何やらぶつぶつと呟いている。
健二を見ることなく、床を見つめたまま呟き続けている。
「勝手にしろ!」
捨てゼリフを残して健二が去った。それでも栄子は微動だにしない。
床を踏み鳴らしている。先ほどの激痛ほどではないが、まだ痛みが走る。
「どうしたの、どうしてなの。あたし、悪いことをしたかしら?」
誰に言うでもなく、はっきり声を出した。
トップダンサーを夢見て踊り続けてきたこの二十年。中学一年の折にフラメンコの世界に飛び込んだ栄子だ。
「やるっきゃないのよ!」己を叱咤するように、大声で叫んだ。
呼応するように急停車のブレーキ音が聞こえた。思わず窓を開けて外を見た。
運転手が怒鳴り、車から男が降りてきた。
窓から見やる栄子、何気なく見上げた正男、二人の視線が偶然に重なった。思わず正男が叫んだ。
「あのダンサーだ!」
窓に描かれているフラメンコの文字に、正男の脳裏に栄子の艶姿が浮かんでいた。
窓から顔を出した女性が栄子だと、確信があったわけではない。
しかしフラメンコのダンサーだということは間違いがない。
そしてそれは、栄子なのだ。
栄子と二人、こぢんまりとした五、六人の客が入れば満席となってしまう小さなバーに入った。
くわえ煙草で氷を割るママに
「いい加減に割れた氷を買ったら」
と言う栄子。
「酒の氷はね、手で割った方が一番なの」
と答えるママ。
十年来のなじみの店だ。正男は栄子の隣で小さくなっている。
「珍しいわね。というより初めてじゃない、健二以外の男連れなんて」
正男を抱き寄せて
「健二とは別れたの、もう。でね、今夜はこの坊や。あたしの、今夜のペットなの。どう、可愛いでしょ?」
と正男を見せびらかす。
じっと正男を見つめるママ。心の奥底まで見透かすような、強い視線を投げかける。
思わず目を伏せた正男に「逃げないの!」と強い言葉を投げ付けた。
そんな正男を
「ママ、いじめないでよ。今夜会ったばかりなんだから」
と、栄子がかばった。
「実はね…」と今夜のことを語った。健二との会話のやり取り、そして一人残されたこと。
ビルから栄子が出てくるなり「ぼく、あなたのファンなんです」と頭を下げてきた正男。
胡散臭さを感じつつも、笑顔に安心感を感じたこと。
そして何より、糊の利いたシャツが好感度をアップさせたこと等々。
今夜は人恋しくもある栄子だ。三十二才という年齢が、現実感を伴って栄子に襲いかかっている。
そんなときの正男の出現だ。何かしら運命めいたものを感じてしまう。
正男にしてもそうだ。今夜に限って行くあてもなくタクシーに乗り込んだ。
そして交差点での酔っ払い、車を降りたところで栄子に出会った。
正男が目ざめた時、まるで見覚えのない部屋にいた。
殺風景な部屋で、廉価なビジネスホテルまがいに感じた。
身体を起こして、まず目に飛び込んだのは、全身が映りこむほどの特大ミラーだった。
しかも所狭しと五枚が並べられてあるのに驚かされた。
また別の壁には、、ひと月ごとのカレンダーが貼ってあり、予定らしきものがびっしりと書き込まれている。
布団の中にまだぬくもりがある。誰かいるのかと手を入れると、そこに栄子が居た。
霞がかった頭に、昨夜のことが少しずつ思いだされてきた。
顔相を見るというママから
「栄子があんたの救い主だよ。母親の呪縛から解き放ってくれる救い主だよ」
と、告げられた。
昨夜酩酊状態の栄子を、送り届けることになった。
タクシーが走り出してしばらく後に「泊まっていきなさい」と酔ったふりをしていた栄子が耳元で囁いた。
甘い香りが正男を包み込み、思わず「はい」と答えてしまった。
沙織では主導権を持つ正男だが、栄子相手では太刀打ちできない。
栄子には、されるがままの正男だった。官能の世界にどっぷりと浸った。
五体全てが正男から離れ、それぞれが暴走を始めた。
果てても果ててもなお求め続ける正男、そして応え続ける栄子。
ついには正男の意識すらも、正男を見捨てた。
“ママが言ってた運命の女って、栄子さんなんだ!”
そう確信した正男だった。
これ以上ムリして、もっとひどくなったらどうするつもりだ。休養することも大事だぞ」
ギターをケースにしまい込みながら「ひさしぶりに一杯飲むか?」と、栄子に優しく声をかけた。
立ちすくんでいる栄子、返事を返さない。じっと床を見つめている。
ボタボタと落ちる汗を拭こうともせずに、何やらぶつぶつと呟いている。
健二を見ることなく、床を見つめたまま呟き続けている。
「勝手にしろ!」
捨てゼリフを残して健二が去った。それでも栄子は微動だにしない。
床を踏み鳴らしている。先ほどの激痛ほどではないが、まだ痛みが走る。
「どうしたの、どうしてなの。あたし、悪いことをしたかしら?」
誰に言うでもなく、はっきり声を出した。
トップダンサーを夢見て踊り続けてきたこの二十年。中学一年の折にフラメンコの世界に飛び込んだ栄子だ。
「やるっきゃないのよ!」己を叱咤するように、大声で叫んだ。
呼応するように急停車のブレーキ音が聞こえた。思わず窓を開けて外を見た。
運転手が怒鳴り、車から男が降りてきた。
窓から見やる栄子、何気なく見上げた正男、二人の視線が偶然に重なった。思わず正男が叫んだ。
「あのダンサーだ!」
窓に描かれているフラメンコの文字に、正男の脳裏に栄子の艶姿が浮かんでいた。
窓から顔を出した女性が栄子だと、確信があったわけではない。
しかしフラメンコのダンサーだということは間違いがない。
そしてそれは、栄子なのだ。
栄子と二人、こぢんまりとした五、六人の客が入れば満席となってしまう小さなバーに入った。
くわえ煙草で氷を割るママに
「いい加減に割れた氷を買ったら」
と言う栄子。
「酒の氷はね、手で割った方が一番なの」
と答えるママ。
十年来のなじみの店だ。正男は栄子の隣で小さくなっている。
「珍しいわね。というより初めてじゃない、健二以外の男連れなんて」
正男を抱き寄せて
「健二とは別れたの、もう。でね、今夜はこの坊や。あたしの、今夜のペットなの。どう、可愛いでしょ?」
と正男を見せびらかす。
じっと正男を見つめるママ。心の奥底まで見透かすような、強い視線を投げかける。
思わず目を伏せた正男に「逃げないの!」と強い言葉を投げ付けた。
そんな正男を
「ママ、いじめないでよ。今夜会ったばかりなんだから」
と、栄子がかばった。
「実はね…」と今夜のことを語った。健二との会話のやり取り、そして一人残されたこと。
ビルから栄子が出てくるなり「ぼく、あなたのファンなんです」と頭を下げてきた正男。
胡散臭さを感じつつも、笑顔に安心感を感じたこと。
そして何より、糊の利いたシャツが好感度をアップさせたこと等々。
今夜は人恋しくもある栄子だ。三十二才という年齢が、現実感を伴って栄子に襲いかかっている。
そんなときの正男の出現だ。何かしら運命めいたものを感じてしまう。
正男にしてもそうだ。今夜に限って行くあてもなくタクシーに乗り込んだ。
そして交差点での酔っ払い、車を降りたところで栄子に出会った。
正男が目ざめた時、まるで見覚えのない部屋にいた。
殺風景な部屋で、廉価なビジネスホテルまがいに感じた。
身体を起こして、まず目に飛び込んだのは、全身が映りこむほどの特大ミラーだった。
しかも所狭しと五枚が並べられてあるのに驚かされた。
また別の壁には、、ひと月ごとのカレンダーが貼ってあり、予定らしきものがびっしりと書き込まれている。
布団の中にまだぬくもりがある。誰かいるのかと手を入れると、そこに栄子が居た。
霞がかった頭に、昨夜のことが少しずつ思いだされてきた。
顔相を見るというママから
「栄子があんたの救い主だよ。母親の呪縛から解き放ってくれる救い主だよ」
と、告げられた。
昨夜酩酊状態の栄子を、送り届けることになった。
タクシーが走り出してしばらく後に「泊まっていきなさい」と酔ったふりをしていた栄子が耳元で囁いた。
甘い香りが正男を包み込み、思わず「はい」と答えてしまった。
沙織では主導権を持つ正男だが、栄子相手では太刀打ちできない。
栄子には、されるがままの正男だった。官能の世界にどっぷりと浸った。
五体全てが正男から離れ、それぞれが暴走を始めた。
果てても果ててもなお求め続ける正男、そして応え続ける栄子。
ついには正男の意識すらも、正男を見捨てた。
“ママが言ってた運命の女って、栄子さんなんだ!”
そう確信した正男だった。