卯月の恋
「ここでいいですか?」

運転手さんの言葉に、大丈夫です、と答えながら、タクシーのメーターを見て青ざめる。


足りない。


さっきの診療代が三万円もしたのだ。


「あ…あのっ。着きましたよ」


肩のあたりをちょんちょん、とつつくと、男の人はすぐに目を開けた。


「あの…すみませんが…。お金…貸してくれません?」


朝の五時に起こし、病院に連れて行ってもらったあげく、お金を借りよう、だなんて本当に図々しいのだけど、部屋に戻ったところで部屋にもお金はないのだ。

男の人はあきれたように私を見て、はぁ、とため息をつく。

そりゃそうだよね。
自分でも本当に情けないと思う。
ほぼ初対面の人からお金を借りようだなんて。


うっ…。
泣きそう。


男の人はポケットから無造作に一万円札を取り出すと、運転手さんにぽん、と渡してお釣りを受けとり、それをまた無造作にポケットにねじ込んだ。


「泣くのやめて。うざい」


マンションに入りながら、振り返りもせずに、そう言う。


「…はい。すみません。お金は今日返します」

「いい。返さなくて。めんどくさい」


めんどくさい…。
これ以上、私に関わられたくないってことか。
へこむ…。


「そういうわけには…。お給料はいったから、銀行に行けばあるんです」

「アンタ、働いてんの?」


エレベーターが下りてくるのを待ちながら、男の人がチラッと私を振り向く。


私がはい、と頷くと、男の人がどこで?と聞く。

「あの…P社です」

「P社?」


男の人は少し目を見開いた。


私がこの四月から働いているP社は、主に家電を取り扱う巨大総合電機メーカーで国内で知らない人はいないくらいの大手企業。
私はそこの総務部で働いている。

ただ、私がそこに入社できたのは、何かの混乱で紛れ込んだのか、人違いではないか、と家族や地元の友人の中では噂されているらしい。




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