残念御曹司の恋
仕事を終えると、自然と足はいつものバーへと向いていた。
あれからはたと気づけば夕方で、半ば無理矢理に今日やるべき仕事だけを終わらせた。

カウンターに座って、マスターにひとこと挨拶を交わし注文をした以外は、ひたすら黙って酒を飲んでいた。

あいつが居なくなるかもしれない。
その事の意味を、頭の片隅で無意識に考えていた。
そして、妙に落ち着かない気持ちになる。

しかも、その事をまだ木下は俺に知らせてはこない。
それは、所詮、俺とあいつの間柄はその程度ということで。
そのことに、無性に腹が立っているのはどうしてだろうと思う。

でも、本当は。
答えは出ているはずなのに、それを決して認めようとはしない自分に苛立っているのかもしれない。
グラスを置けば、自然と溜息が漏れた。
そんな俺を見ても、今日のマスターは一言も言葉を紡がない。

「マスターが喋らないなんて、珍しいな。」
「さっきから、考え事に忙しそうだから邪魔しちゃ悪いなと思ってね。」

痺れを切らしてしゃべり出した俺にマスターは肩を竦めながら答える。

「考えても、どうしたらいいか分からない。」

まるで、助けを求めるように呟いた俺に、マスターは微笑みかけてくる。

「気づいたんなら、一刻も早く素直になるべきだ。」
「もう遅いかも。」
「今ならギリギリ間に合うんじゃないか。」

そのやり取りに、少しずつ俺の気持ちは固まっていく。背中を押されないと動けない自分に苦い笑みを浮かべた。

「すぐそこの大通り沿いのFマンション。部屋は505号室だ。前にここで酔いつぶれた彼女を送っていった。まだ引っ越しまでは終わってないはずだよ。」

そうマスターに告げられるのと同時に俺は店を飛び出していた。
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