残念御曹司の恋
「片桐さん、昨日お願いしたお客様の書類の手続き、明日でもいいかな?午後から来店してもらうから。」
私の目の前までやってくると、谷口隼人(たにぐちはやと)は爽やかな笑みをこぼしながら、用件を口にした。
「分かりました。大丈夫ですよ。」
「じゃあ、これ、お願いします。二時頃の予定だから。」
住宅購入の契約データや、建築スケジュールなどの資料が入ったファイルを手渡される。
仕事の会話はこれで終わり。
でも、彼の用件はまだ終わっていないらしい。
「今日、お昼いっしょにどう?時間は合わせるよ。」
私の耳元だけに届くように囁かれた一言は、このところ何度も繰り返し聞いている言葉だ。
時には、「お昼」のところが「晩飯」や「一杯」になったりするだけで、彼の意図することは毎回同じだと推測できる。
その都度、やんわり断ったりしているのだが、一向に諦める気配がない。
この優秀な営業マンはどうやら押せ押せタイプで、プライベートでも引くことを知らないらしい。
あからさまな好意をこれ以上受け流すのも限界か。
私は観念して、彼に微笑みかけた。
「今日は早番なので一時間後ですが、いいですか?」
私の返事がイエスであることを想定していなかったのか、彼が少しだけ驚いた表情を見せる。
だが、それも一瞬だった。
「じゃ、すぐそこのカフェで待ってる。」
動揺しても、押しの強さは健在なのか。
彼はすぐに、勝手に場所を指定して去っていく。
人懐っこい笑みを浮かべるのも忘れずに。
しかし、どんなに押されても。
どんなに笑顔を向けられても。
私の答えは変わらない。
「一度ちゃんと話をするか。」
断る方法が変わっただけだ。