残念御曹司の恋
「でも。」

主任が顔を上げて、視線を手元の書類から私の顔に向ける。

「片桐ちゃん、乗り気じゃなさそうだけどさ。忘れるには、新しい恋って言うしね。乗ってみても悪くないと思うわよ。」

笑い混じりだったが、彼女の表情は真剣だった。
主任の路子だけは、私がここに来た理由が失恋であることを知っている。
もちろん、詳細については知らないはずだが、二人で飲みに行った時に酔ってつい話してしまったらしい。
「らしい」というのは、飲み過ぎて記憶が曖昧だからだ。
私より少し年上で姉御肌の彼女に、私は自分で思っていたより懐いていたらしい。

「…当分、恋愛はいいです。」

そう言って顔を俯けた。視線はさっき谷口から預かった手元の書類だ。

「そう?彼ちょっと性格はしつこいみたいだけど、なかなかのイケメンよ。」

どこまでもネガティブな私に対して、明るくあっけらかんとした口調で話す。

「相手の問題ではなくて、私の気持ちの問題です。」
「もったいないわね。じゃあ、私が狙っちゃおうかしら。」
「…別に構いませんけど、路子さん、無茶苦茶かっこいい彼氏居るじゃないですか。」
「もちろん、冗談よ。やーねー、この真面目っ子。」

最後は茶化して会話は終わった。
二人してくすりと笑う。
彼女なりの気遣いなのだろう。
失恋ごときで転職と引っ越しをしてしまうまで思い詰めた私の心を、少しでも軽くしようとしてくれる。

私は彼女にぎりぎり聞こえるくらいの声で、「ありがとうございます」と呟いた。
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