彼があたしを抱くとき
「前から好きだったんです」
口の中で苦味を感じた。
後ろめたさの味かもしれない。
口の中の苦味をかみしめながら、
岸谷さんでなくとも、口づけをしたであろう自分を認識した。
口づけは、あたしを空虚な倦怠感から脱出させるために十分な出来事だ。
毎朝、夏ミカンの並木の下でのみじめさの中で、
だれかがあたしを抱きしめ、
肌と肌をふれわせ暖め合うことを欲していた。
つまり、岸谷さんに、わざわざ
「好きだ」と告白しなければならないほど、「好き」なわけではない。
その告白の必要性はただあたしが、世間一般の常識からそうしたにすぎない。
告白によって、ある程度、成人の非難から逃れられることをあたしはよく知っていた。