極甘上司に愛されてます


……けれど。世の中そんなに単純なものではないと知ったのは、俺が高二のとき。

その頃、癌を患っていることが明らかになった文子さん。

発見が遅くて、病状はすでに末期。
まもなく文子さんは亡くなり、一軒家に一人ぼっちになってしまった菊爺が、あるとき家の前を通った俺を縁側に呼んだ。


『……文子は、不幸な女だった』


季節は冬で、庭木もほとんど枯れていて。そんなうらさびしい景色をぼんやりと眺めながら、菊爺は呟いた。


『んなことねーだろ。病気のことは、もちろん気の毒だったけど……いつも笑ってたじゃん、文子さん』


幼いころに比べたら彼らの家にお邪魔する機会は減っていたけど、顔を合わせれば立ち話をしたし、部活で疲れて帰って来る俺に、文子さんは手作りのおにぎりをよく持たせてくれた。


『いや……それは偽りの笑顔だったんだ』

『偽り?』


菊爺は悔やむように眉根を寄せ、膝の上で拳を握った。


『自分の死を悟った文子は、病院で毎日のように俺に言った。“私……死ぬまでに、一度でいいから外で働いてみたかった”――ってな』


……あんなに楽しそうに料理を作って、掃除をして、洗濯をして。

ただの近所のがきである俺に対しても母のように優しかった文子さんが、そんなことを……?

にわかには信じられない話だったが、でも菊爺の様子を見る限り、それは本当のことなのだろうと思った。


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