サイレント
「待って!」

切羽詰まった声で呼び止められて樹里は振り返った。

「やっぱ、いらない」

一がそう言って一万円札を樹里の胸に押し付ける。
ぴん札だったそれは一に握りしめられて皺になっていた。

「え?いらないって……何で?」

「帰って来たんだ、今日」

主語のない一の言葉は樹里にはピンと来なかった。
そんな樹里の様子に一が眉間に深い皺を刻んで付け加える。

「母さんが帰って来た」

「……え」

「だからもう、夕飯作りに来てもらわなくていいし、多分お金も貸してもらわなくても大丈夫だと思う」

しばらく言葉が出なかった。
多分ここは「よかったね」と言うのが妥当なんだろうけど、樹里にとっては複雑だった。

一は母が帰って来ることを望んでいたんだろうし、これからは弟の世話もせずに済んで普通の中学生としての生活ができる。部活だってもう一度できるようになる。

一の母が帰って来て困るのはどう考えても樹里一人だった。

母のいる一の生活の中で樹里の役目など何一つない。用済み。

「先生、聞いてる?」

「え?あ、うん。その……よかったね」

結局樹里は1番妥当な言葉を口にした。
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