サイレント
「もう一度野球部に戻って来ないか」と相沢から誘いを受けたのはそれから二週間後のことだった。

樹里とも会わなくなり、ただ有り余る程の時間を持て余していた一は何も考えずにその誘いを受けた。

想像以上に鈍っていた身体を元に戻すのにはそれなりの努力が必要だったが、樹里への欲望を解消するのにはうってつけだった。

母は温泉で働いていたときに知り合ったという人から紹介されて近所の工場で一日5時間のパートを始め、弟は小学校の友達とバスケをするのに夢中になっていた。

まるで母がいなくなる前に戻った、いや、その頃よりも順調に家族がそれぞれの道を歩み始めたように見えた。

相変わらず父は戻って来なくても、リビングの引き出しの中にくしゃくしゃになった離婚届が放置されていても。

野球部はようやく雪が消えたグラウンドでまともな練習が再開されるようになった。

「みんな守備についてー!」

キャプテンの声が響き渡る日曜のグラウンド。
一は確かめるようにバットを握り締め、素振りを二、三度繰り返した。

試合形式の練習を一、二年でやる。

一年の華奢な少年の投げたストレート球を一は思いきり打った。
外野が取りそこねたボールを慌てて取りに走る。一はその間に余裕で二塁まで進んだ。
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