サイレント
目を閉じて浴衣姿の樹里を想像してみた。
イメージ的には赤だけれど、それじゃあ子供っぽいから紺色かな、などと考える。

けれどそんな妄想は樹里の『着ないよ』という一言でシャボン玉のようにあっけなく弾けて消えた。

「なんで」

『面倒でしょ。第一暑いし動きにくい』

「あ、そ」

『がっかりした?』

意地悪そうに樹里が言った。

「別に?」

『だよね。……じゃあ、5時に駅で』

「了解」

樹里は一の言葉を聞くとあっさりと電話を切った。
ベッドに腰掛け、時計を確認する。

「やべ、あんまり時間ないじゃん」

一は慌てて立ち上がると財布をつかみ、そのまま階段を駆け降りた。

なんだか胸が騒いでいた。

どきどき、わくわく。

単純にそう表現できるものではなくて、言葉にできないような、今思えばそれは楽しみが先に待っている時の、例えば小学校の遠足の前に興奮して眠れないとか、そんな類のものじゃなくて。

これから起きることを予知していたんだと思う。

悪い胸騒ぎ。

けれど、この時はその胸騒ぎをそんな風に捉えることなんて、できるはずはなかった。


こんなことなら、はっきり言っておくべきだった。

先生。

俺は先生のこと、好きだよ。

好きでした。

今も、忘れられない。
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