サイレント
靴を履いて顔を上げれば一と目が合う。

このまま帰っていいのかな。ふと、そんな思いが沸き上がる。

せっかく一が樹里を選んでくれたのに。
周りにたくさん人がいる中、大して親しくもない保健室の先生である樹里を、一は頼った。
頼れる大人だと認めて打ち明けた。

一が気になってしょうがなかった癖に、ここで逃げるの?

逃げたら、他の誰かが一に頼られるポジションを持って行ってしまうのに?

それとも一から聞いた話を一の担任に話してしまう?

……でもそんなことしたら、一に嫌われる。

「先生?帰らないの?」

一はなかなか動かない樹里に少しだけ苛立ちを含んだような声で言った。

自分の立場を忘れちゃいけない。一は生徒だ。まだ子供だ。
親がいない家で弟を抱えて生活なんてしていけるわけがない。

「……弟が変に怪しむから帰ってよ早く」
「帰れないよっ!」

口から自然と言葉が出ていた。
一が驚いたように目を見開く。

「このまま帰るなんてできるわけないでしょ!?生徒が、芹沢くんがこんなに、困ってるのにここで帰ったら……」

「じゃあ、貸してよお金。俺が、昼休みに貸してくれるなら何でもするって言ったの覚えてる?」

樹里は首を縦に振った。
一がゆっくりと樹里の方へ歩いて来る。

「知ってるよ俺、先生の秘密」

一の手が樹里の肩に触れた。樹里はびくりと体を震わせて一歩後ろへ下がるが、すぐにドアにぶつかりそれ以上下がれない。
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