サイレント
「……嫌です」

考える間もなく樹里は答えた。

「帰って。あんまり帰りが遅いとパパが心配するよ」

厭味100パーセント。

一は重い腰をあげた。

「わかった。今日は帰る」

「二度と家には入れないけど」

それも振り返らずに樹里は言った。
一はその意地悪な口調にさすがにカチンときたけれど、怒りを堪えて部屋を後にした。

樹里の部屋は四階だった。

階段を下りながら初めてそのことに気がつき、倒れた一をどうやって部屋まで運んだのかと驚いた。

エレベーターは見当たらないし、樹里より長身の、男の一を引きずるのは相当困難なはずだった。

一人で必死に一を運ぶ樹里を想像して一は胸が燻るような感覚を覚えた。

一度もこちらを振り返らなかった樹里がどんな顔をしていたのか無性に気になりだす。

明かりのついた樹里の部屋のベランダを見上げたが、樹里の姿は見えなかった。
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