サイレント
そんな拓海を見た途端、樹里の胸はズクリと痛んだ。

心のどこかで一の母が帰って来なければいいと思っていた樹里の良心が痛む。
一の母が帰ってこなければ一はずっと樹里を頼り、一緒にいられる。
一の母が帰って来てしまったら今のようにこうやって一と過ごすことが出来なくなる。

けれど、口にしないだけで本当は一も拓海と同じで母の帰りを望んでいるはずだった。

樹里は心の中で「帰って来ないで」と必死に願った。

まだ一と一緒にいたい。
必要とされていたい。

たとえ拓海が悲しんでも、一が辛くても、どうかもう少しだけ、この場所を私に譲って。

樹里がそんなことを考えているだなんて少しも疑っていない拓海は、一生懸命母のことを樹里に教えてくれた。

赤色が好きなこと、日本語の読み書きが得意じゃなくて学校へ提出する書類は一が書いていたこと、いつも優しくて殆ど怒ったことがないこと、泣き虫なこと。

そうやって嬉しそうに、恋しそうに話す拓海を見ていると突然、ニコチンの切れた樹里の手が奮え出した。

「どうしたの?寒い?」

尋常じゃない樹里の手の震えに気がついた拓海がファンヒーターの温度をあげてくれる。

樹里は手の震えをごまかすように、何とか拓海に笑顔を向けた。
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